文芸 同人誌 そろそろ新しいゲームの舞台を 「作者」という概念の決定的な衰弱、代替可能性|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年12月24日 / 新聞掲載日:2018年12月21日(第3270号)

文芸 同人誌
そろそろ新しいゲームの舞台を
「作者」という概念の決定的な衰弱、代替可能性

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二〇一八年の文芸界は、大きな変化が観察できる年だったのか否か、全然わからない。そもそも同時代進行形の小説にそんなに関わってこなかった者に「変化」を指摘する資格はない。しかし一年を通して、なるほど、小説の現在時はこのへんの座標点になるのだなという漠然とした印象は得たので、それを述べてみたい。
最も印象に残ったのは、古市憲寿の二作「彼は本当は優しい」(『文學界』四月号)と「平成くん、さようなら」(『文學界』九月号)である。二、三の身近な人との雑談で、古市は好きじゃない、よく評価するね、とも言われたが、そもそも他の著書もメディアで活躍する姿も知らないので、作品外の情報は考慮に入っていない。仮に知っていたとしても、人間としての作者はどうでもいい。成果を評価する際に、人格は切り離すべしという近代的な競争の平等性を重んじての話ではない。何よりも彼の作品が印象的だったのは、まさに生身の「作者」の不要を教える作品だと思ったからだ。ネタとロジックの引き出しに困らない知的人種である限り、現代社会の思想的な争点を整理して適切なキャラクター配分を行えば、誰でも良質の小説が書けてしまうと思わせる点が一つ。二点目は、主人公である。そのまま「人間としての〇〇はどうでもいい」という台詞を言いかねない、論理による功利的な解を優先する登場人物は、そのような書かれ方を作品世界の側から保証して見える。

実際、前者に関しては、国分拓「ノモレ」(『新潮』一月号、二月号)に始まって先月の岸政彦「図書室」(『新潮』十二月号)まで、本職でない書き手の活躍がめざましい。いっぽうで、専業の小説家においても、数十年前に比べると、はっきりと技術的な向上があるように思う。それら別々の二つの現象の共通の根には、たぶん「作者」という概念の決定的な衰弱、もっといえば、代替可能性がある。

小説以外の文章には注意を払ってこなかったが、意外に印象深く覚えているのが、髙村薫の短い講演記録「小説の現在地とこれから」(『新潮』六月号)である。純文学は、作家固有の身体性を体現する文体の存在によって定義されるものであり、世がVR化している現在、その身体性が失われ、必然的に純文学も消滅するという議論である(そして全盛のエンタメも、早晩、対抗勢力を失って消えるという)。表向きの言葉は新しくない。純文学の終わりという文言は一九三〇年代から繰り返されている。ただ、ここで書き手の「身体性」に焦点が置かれたことは重要である。髙村が語っているのは、まさに「作者」の消滅という事態なのだ。

よく誤解があるようだが、既に行き詰まりつつあるらしいAIが今後順調に発達するとして、先に人間が不要になるのは作家である。文芸の世界では「従」に位置してみえる批評や論文の方ではない。創作と違い、複雑な文章を読んで理解し、分析し、論点を形成するというプロセスが圧倒的な負荷となるに違いないのが一つ目の理由。もう一つは、創作なら人知を超えた作品に意義を認められるが、それを論じる人間は、あくまで人間の問題としてそれを引き受けるのであって、人間を超えた知性が作る議論にたいした意味はないからである。

北条裕子「美しい顔」(『群像』六月号)は、盗作疑惑で余計に盛り上がったが、それも稀に見る絶賛の嵐という前振りがあってのことである。この際、美人だからでは? という邪推は除けておくが、被災者の表象代行問題(ジレンマ)という基本設定を押さえた上で、そこに突貫していく姿が、日頃小難しいことを言いながらも最後はベタなものに開き直りたくてしかたない我々評者に、変な勇気を与えてくれた部分はあっただろう。それが実のところ引用のパッチワークで作られていたことは、久々にいる・・と感じた「作者」が蓋を開けてみれば不在だったということだ。事件の意味は小さくなかった。

誤解なきよう言い添えるが、規模の縮減はあっても、小説は消えはしない。大文字の「文学」からは若干の距離を置くだけのことである。美術における絵画の存在を考えればいい。作品の良し悪しが、その領域では議論され、結構な値で市場を流通しているはずだ。ただ、ピカソのような「作者」は二度と出て来ないということである。そんなゲームの切り替わりを、一年時評を務めてようやく実感できた。何度も言うが、文学から小説が相対的に自立すること自体は、それで構わないし、たいていの人は困らない(困るのは文学史を書きたい研究者くらいだろう)。

話が変な方向に行ってしまった。上述にない今年の推し作品を最後に挙げておきたい。四元康祐『前立腺歌日記』(講談社)も良かったし、本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」(『群像』三月号)も面白かったし、それこそ作者の歴史的身体性を要する好例と思わせる四方田犬彦「鳥を放つ」(『新潮』八月号)は格が違ったし……いくらでもあるが、列挙しても仕方ないのでやめた。町屋良平を評価するのは、たぶん最も安全である。質の高い作品を短い間隔で発表していた。共通テーマは、ひと言で、「青春」の身体・認知的な解釈といったところ。時評では扱えなかったが、「1R1分34秒」(『新潮』十一月号)のみずみずしさは良かった。ただ、広い意味での内省の語りなので、世界の狭さに息苦しさも感じる。俗世間の広がりや社会問題との接点をほどよく拾っていけば、吉田修一のような形で「売れる小説」の方向に進む可能性はあるかなと思う。

多和田葉子や松浦寿輝の短編は、とにかく上手で安心して読めるが、手練れゆえに小さくまとまっても見えてしまう。一度、技術で抑えきれない異常なを投入した作品を見てみたいと無茶にも思った。ただ、後者の「月岡もの」は、タイトルを問いの形にし、それに自由闊達に答えてみせるという――いわば「題詠」を応用した――「作者」不在の時代を先取るような工夫がはまっており、毎度感心した。

とはいえ、やはり全般には、短・中編対象の芥川賞の存在が若手の作品スケールを抑圧している気がしてならない。本当に純文学なるヘンテコな枠組が消えるのであれば、そろそろ新しいゲームの舞台を整えても良いのではないか。最後はそんな気持ちになった。
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