2018年回顧 映画 21世紀の映画論とは ベルクソンとドゥルーズの過ちを 否定するところからしか始まらない|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年12月22日 / 新聞掲載日:2018年12月21日(第3270号)

2018年回顧 映画
21世紀の映画論とは
ベルクソンとドゥルーズの過ちを 否定するところからしか始まらない

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福尾匠の『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)は、『シネマ』を丁寧に解説する書物だ。本来ならばこうした本はもっと早く書かれているべきで、二〇代の若手が書くまで誰もやらなかったことが、年長の世代に属する者として恥しい。ドゥルーズの『シネマ』の内容に一言触れておこう。『シネマ』は顕在的なイメージを運動イメージ、潜在的なイメージを時間イメージとして映画を分析する二巻の書物で、ここで潜在性という概念はベルクソンの持続という概念に由来している。しかし、この持続という概念こそがまやかしだ。科学的に規定され得ない生きられた時間としての持続は錯覚にすぎず、神秘主義の源泉となっている。それ故、持続に由来する潜在性という概念もまた錯覚である。要するに、時間イメージなど存在しないのだ。

福原匠の書物に戻れば、これは『シネマ』の解説書として至極真っ当である。映画作品への言及を避け、映画通の趣味判断的な視点を排したのも功を奏している。今年の収穫の筆頭であり、『シネマ』をめぐる粗雑な議論はこれで一掃されるだろう。ただし、イメージをありのままに見ることなどあり得ず、「眼がスクリーンになる」ことは決してない。二一世紀の映画論はベルクソンとドゥルーズの過ちを否定するところからしか始まらない。

吉田広明の『西部劇論 その誕生から終焉まで』(作品社)も今年の貴重な収穫のひとつだ。著者は西部劇の歴史という重要な主題に五年に渡って取り組んだという。その場限りの無責任な言葉が飛び交う今の日本では、こうした姿勢こそが映画の書物に必要なのだろう。西部劇を無償の活劇としてではなく、主に共同体と正義という観点から考察しており、美でも真でもなく善という価値を映画作品に強く結びつけるのは、いかにも今の時代の流れに即している。吉田広明は、一九九〇年代の初めにクリント・イーストウッドの『許されざる者』が西部劇を終わらせたと論じるが、その一方で、芦原伸の『西部劇を極める事典』(天夢人)は二一世紀の西部劇に一章を割いている。

『西部劇論』の重厚さの魅力とは対照的なのが、マルグリット・デュラス&ジャン=リュック・ゴダールの『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』の軽やかな煌めきだ。二人の個性豊かな芸術家の対話はひたすら噛み合わず、そのことがひどく滑稽で楽しい。

三浦哲哉の『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店)はこの対話本よりもさらに薄いが、内容は濃く、一粒の宝石のような愛の書物である。濱口竜介の映画『ハッピーアワー』は、このような書物を捧げられて幸せだろう。

二〇一八年の映画本では、石岡良治&三浦哲哉編著『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルムアート社)と有馬稲子&樋口尚文著『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』(筑摩書房)も、収穫として挙げておきたい。
この記事の中でご紹介した本
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』/フィルムアート社
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』
著 者:福尾 匠
出版社:フィルムアート社
以下のオンライン書店でご購入できます
「眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』」出版社のホームページはこちら
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