あれは誰を呼ぶ声 書評|小嵐 九八郎(アーツアンドクラフツ)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年12月29日 / 新聞掲載日:2019年1月4日(第3271号)

「世代の責任」を問う作品
「戦慄」と共に一考せざるを得ない仕掛けも

あれは誰を呼ぶ声
著 者:小嵐 九八郎
出版社:アーツアンドクラフツ
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9年前に62歳で亡くなった1947年生まれの立松和平は、早稲田大学における学生運動(全共闘運動)体験を基にした長編『光匂い満ちてよ』(1979年 新潮社刊)を完成させた直後のエッセイ「鬱屈と激情」で、「ぼくの精神形成の多くは、七〇年前後の学園闘争におうところが大きい」と書いていた。立松は、その後も「七〇年前後の学園闘争」にこだわった『光の雨』(98年)などの作品を書き続け、思い半ばに倒れたが、何故1960年代後半から70年代初めの「政治の季節=学園闘争」にこだわり続けたのか。立松はいくつかのエッセイや『光の雨』で、それは「世代の責任だから」といった主旨の発言をしていた。

このような立松の発言は、「七〇年前後の学園闘争」=政治の季節の中心を担った「団塊の世代」とその前後の世代に共通する意識から発せられたものと言っていい。立松より3歳年上の本書の著者の場合も、新左翼の活動家から表現者(作家・歌人)へと「転進(転身)」してから今日まで、そのほとんどの作品において「世代の責任」とは何か、「あの時代(政治の季節)」の意味は何であったのか、を問い続けてきたと言っても過言ではない。

その意味で、本書は「七〇年前後の学園闘争」の意味を問うた前作『彼方への忘れ物』(2016年刊)に続く、著者自身の70年代における新左翼党派の活動家体験を基にした「世代の責任」を問う作品であった。作中には70年代の日本社会を震撼させた様々な「政治的」事件が登場する。1970年の赤軍派による「よど号ハイジャック事件」に始まり、60年代末から続く「内ゲバ」(党派闘争)、1972年の「連合赤軍事件」(連合赤軍による「あさま山荘銃撃戦」とそれより前の一六名に及ぶ同志殺人事件)、1974年の東アジア反日武装戦線(狼グループ)による三菱重工本社爆破事件および一連の爆弾闘争、等々。

本書の特徴は、著者がそれら70年代に起こった様々な「政治的」事件と否応なく関わりを持つことになる男二人(革命党派の活動家から労働組合の専従職員になった男と「赤軍派」のシンパ(同調者)で最後は爆弾闘争に加担していく男)と、革命党派の活動家に惚れ続ける女(専門学校生を経て保母になる)の「三角関係=政恋愛」を軸に物語を構築することで、「あの時代」に自分たちがその全存在をかけて叫んだ「革命」や「根源的な社会変革」とはいったい何であったのか、その内容の「重さ」とは裏腹の「軽い文体」を意識的に駆使しつつ、愚直に問うところにある。

また、物語には著者の「忸怩たる思い」――それは、「あの時代」から50年以上経っているにもかかわらず、世の中は「何も変わらず」、むしろ社会全体は「悪い方向」に進んでいるのではないか、という思い――と、「果たしてこれでいいのか」という根源的な私たちへの問いかけも底流しており、それもこの長編を魅力あるものにしている。

なお、クリスチャンの父親から「ヨブ記」(『旧約聖書』)の「義人(正義の人)の苦難」を意味する「ヨブ」に因んで名前を付けられたという「平与武彦」が、時代に翻弄される典型的な人物として半ば戯画化され、主要な役割を課せられているが、この「平与武彦」の存在をどのように考えるか、読者は「戦慄」と共に一考せざるを得ない仕掛け(作者の悪だくみ)に驚かされるだろう。
この記事の中でご紹介した本
あれは誰を呼ぶ声/アーツアンドクラフツ
あれは誰を呼ぶ声
著 者:小嵐 九八郎
出版社:アーツアンドクラフツ
以下のオンライン書店でご購入できます
「あれは誰を呼ぶ声」出版社のホームページはこちら
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