エリザベスの友達 書評| 村田 喜代子(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年12月29日 / 新聞掲載日:2019年1月4日(第3271号)

〈帰る〉ことをめぐるドラマ
どこに、なぜ帰るのか、個々の生が立ち上がる

エリザベスの友達
著 者: 村田 喜代子
出版社:新潮社
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本作の舞台は北九州の介護付き有料老人ホーム「ひかりの里」である。これまでにも作者は、祖母と孫の交流を描いた『鍋の中』や共同体の存続のため捨てられる老人達を描いた『蕨野行』などで老いの問題を取り上げてきたが、ここでは認知症の女性達に焦点を当てる。

110号室の天野初音さんは九十七歳。建物の同じ側に並ぶ111号室には八十八歳の土倉牛枝さん、112号室には九十五歳の宇美乙女さんが入居中だ。彼女達のもとを面会に訪れる子ども達の側も年齢を重ねている。初音さんの娘の場合、長女は七十六歳。脳梗塞で倒れて半身不随となり、脳血管性認知症発症の不安を抱えながら独り身の生活を送る。同じく独り身の二女も六十歳代に入っている。厚生労働省の推計によれば、認知症高齢者は今後も増加し、二〇二五年に七〇〇万人に達する見込みだという。初音さん達は当該者であり、長女は近い将来自分がそうなるとの恐れとともに生きる者である。「認知症に死の宣告はない」という容赦ない一節は読む者の心に突き刺さる。

本作は、こうした超高齢社会となった日本が直面する深刻な現実を、〈帰る〉ことをめぐるドラマとして描き出す。「ひかりの里」で人生の終幕への日々を過ごす入所者達は夕刻になると暇乞いを始める。だが、帰ろうとする先は自宅ではない。初音さんが二十歳で渡った天津の日本租界であり、乙女さんが少女時代を過ごした生家である。彼女達の意識は時空を超えて過去の世界へ向かう。介護の現場が現実と幻想の境の揺らぐ場となり、大正から昭和、平成へ時代を超えて生きてきた高齢者達の多様な人生のドラマが交錯する場となるのだ。最後に残るのは人生のうちで最も鮮烈な記憶の断片であるのか、帰っていく世界は細部まで精彩を放っている。戦後七十年が過ぎ、戦争の記憶の風化に対して警鐘が鳴らされるようになって久しいが、認知症で子育てや夫の看取りなどの経験の記憶を失ってもなお、戦争の足音が聞こえ始めた頃から敗戦後に至る当時の記憶を心の深層に刻む入所者達の姿が浮かび上がる。さらに唱歌によって、入所者が共有する記憶も想起される。

ただし、それらは実際の経験の再現とは限らない。たとえば牛枝さんが帰る世界では、「出征」した馬や犬や鳩が面会に訪れ、彼女は「許せ。許せ。人間ば許してくれろよ。」と郷里の言葉で許しを乞う。そうした症状を単なる記憶の混濁とするのではなく、どこに、なぜ帰るのかということに、その人が何を悔い、何を大切に思い、何を心の奥に秘めて生きてきたのか、生き方の一端が表れていると本作は伝える。

それらがいずれも、今、ここにある「現実」として彼女達の眼前に鮮やかに映し出され、認知症高齢者と一括りにされる彼女達の個々の生が立ち上がる。そこに時代に翻弄され四十歳で人生を閉じた、清朝最後の皇后婉容の人生が交錯する。その背後には、帰還船に辿り着けなかったり、戦地で命を落としたりして帰れなかった人間や動物、故郷に帰りたいと願い「アリラン」を歌った朝鮮人労働者の姿もある。「ひかりの里」に母を預けて帰途につく娘達の思いも描き込まれる。介護の現場を舞台に、〈帰る〉ことの諸相から、歴史のうねりと個人の生、個人の記憶と集合的記憶、老い、介護、親子の問題が重ねられ、円熟の筆致で描かれる。深い余韻を残す一冊である。
この記事の中でご紹介した本
エリザベスの友達/新潮社
エリザベスの友達
著 者: 村田 喜代子
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
「エリザベスの友達」出版社のホームページはこちら
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