承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱 / 6354(中央公論新社 )稀代の帝王が敗北した歴史の重み 承久の乱が劇的に変えた公武の力関係とは|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年1月5日 / 新聞掲載日:2019年1月4日(第3271号)

稀代の帝王が敗北した歴史の重み
承久の乱が劇的に変えた公武の力関係とは

承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱
著 者:坂井 孝一
出版社:中央公論新社
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 承久の乱は、中学や高校の歴史の教科書に必ず太字で記載される鎌倉時代の重大事件である。にもかかわらず、源頼朝の鎌倉幕府草創やモンゴル襲来(元寇)と比べれば、その記述ははるかに簡略であり、しかも、乱を起こし、幕府に敗れて隠岐島に流された、いわば乱の主役の後鳥羽院(上皇)に関する説明はごくわずかしかない。そのためか、多くの人が後鳥羽院について学ぶ機会に恵まれず、承久の乱自体も、時代の流れが読めない朝廷の権力者が倒幕を企てて返り討ちにあった事件、という認識にとどまっているように思われる。

さらに、先入観に基づく誤解もある。たとえば、後鳥羽院の人物像である。後鳥羽院は、自ら積極的に撰歌・編集を行い、中世和歌の美の極致『新古今和歌集』を完成させた優秀な歌人であり、学問・音楽に抜群の才を発揮し、武芸や蹴鞠(サッカーの円陣パスのような芸能)にも長じた文化の巨人、諸勢力の上に君臨した稀代の帝王であった。

また、鎌倉幕府三代将軍源実朝に関しても誤解がある。実朝は万葉調の雄大な秀歌を詠み、家集『金槐和歌集』を自ら編んだ優れた歌人であったが、それが故に、東国武士の中で孤立した文弱な将軍という評価を受けてきた。しかし、実朝は将軍親裁を推し進め、執権北条氏をはじめとする御家人たちの上に君臨した統治者であった。そして、後鳥羽院・実朝の両者は朝幕のトップとして協調し合い、公武両政権の関係は極めて良好だったのである。

ところが、こうした点が一般に周知されているとは言いがたい。背景には朝廷と幕府は対立するもの、政治と文化は無関係なものとする先入観があるように思う。しかし、武士は自らの権力の源泉として朝廷の官位を望み、朝廷は治安維持のため在京御家人の武力を必要とした。また、天皇に求められたのは学問・音楽・和歌であり、政治と文化は不可分であった。本書は先入観を払拭し、後鳥羽院・実朝に対する誤解を解くことを目指した。

ただ、現実には承久の乱が起き、後鳥羽院は隠岐島に配流となった。そこには、稀代の帝王がおちた宿命の陥穽があったと本書はみている。よく知られているように、後鳥羽院は正統な王であることを保証する「三種の神器」なくして践祚(即位)した。しかも、宝剣は壇ノ浦の合戦で海底に沈んでしまった。正統な王たる上で決定的な欠格事由である。後鳥羽院の生涯とは、この宿命を背負い、正統な王とは何かを追い求める長い旅であったといっていい。その強烈な思いが、実朝の横死後、コントロール下に置けなくなった幕府、その元凶たる北条義時の追討へと後鳥羽院を駆り立てることになった。

だが、宿命の陥穽におちた後鳥羽院は幕府に敗北する。一方、文化の巨人たる朝廷の最高権力者を倒した幕府は自らの強さ・巨大さを証明し、公武の力関係を劇的に変えた。以後、極端な言い方をすれば、江戸時代末の大政奉還まで両者の関係が変わることはなかった。本書が、承久の乱の持つこうした歴史の重みを伝えることができたとすれば幸いである。
この記事の中でご紹介した本
承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱/中央公論新社
承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱
著 者:坂井 孝一
出版社:中央公論新社
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