国体論 菊と星条旗 / 白井 聡(集英社)「戦後の国体」=菊と星条旗の結合を直視するために 被支配の自覚なきところに自由への希求も知性への渇望もない|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

著者から読者へ
更新日:2019年1月3日 / 新聞掲載日:2019年1月4日(第3271号)

「戦後の国体」=菊と星条旗の結合を直視するために
被支配の自覚なきところに自由への希求も知性への渇望もない

国体論 菊と星条旗
著 者:白井 聡
出版社:集英社
このエントリーをはてなブックマークに追加
国体論 菊と星条旗(白井 聡)集英社
国体論 菊と星条旗
白井 聡
集英社
  • オンライン書店で買う
2020年開業予定のJR東日本の新駅名称は、「高輪ゲートウェイ」と決まったらしい。多くの人々が憤慨しつつ指摘しているように、同社幹部のオッサンどもの「カタカナを入れるとカッコイイ」という糞ダサいセンスによって決められたのであろう。

『国体論 菊と星条旗』は、主に政治と歴史を論ずる書だが、現在の日本人が、言語についての感覚においてまで、かかる悲惨な水準にまでいかにして落ちぶれ果てたのかを明らかにする書でもある。この零落の原因を一言にしていえば「国体ゆえ」である。「国体」が徹底的に批判されねばならないのは、それがそこに生きる人間をダメにするからである。

もちろん、かつて天皇制ファシズムをもたらしたあの「国体」が、そのまま無傷で戦後も生き続けてきたわけではないし、今日社会の右傾化がどれほど進もうとも、同じものが復活するわけではない。しかしながらまた、「国体的なもの」は確実に今日まで生き延びてきた、とするならば、それはいかにしてであったのか。

本書が拠って立つ仮説は、「戦後の国体」は、日本の天皇の上に米国を、すなわち米国を「真の天皇」として押し戴く体制なのだ、とする。

そしてその視座から、明治維新から敗戦まで、敗戦から現在までを、それぞれ「国体」の形成・発展・崩壊が二度繰り返される歴史として叙述する。この見方に従えば、東西対立の終結により対米従属路線の合理性が消滅した1990年前後から現在に至る「失われた30年」の期間は、「戦後の国体」の崩壊期にあたる。そこでは、あの戦争においてあらゆる犠牲を厭わずに「国体護持」が追求されたのと同じく、あらゆる合理的批判を斥けて対米従属路線が死守されてきたのである。

ところで、さる大変高名な学者が、この『国体論』と『永続敗戦論』を対米従属批判の書とし、著者を「反米主義者」と目しているらしいという事実を知って、私は腰が抜けるほど驚いた。私の理解では、「反米主義者」とは、中東などで米軍基地にロケット砲を打ち込んでいるような人たちのことを指すのであって、私ごときはたかだか「我が国の米国との付き合い方にはいささか不健全なところがあるので改めるべきではないか」と主張しているにすぎない。こんな軟弱な主張をするだけで、勇猛果敢の士と目されるとは、何と素晴らしい国であることか。まさに万邦無比である。

そしてまさに、この「万邦無比」にこそ日本の対米従属の問題、その特殊性がある。対米従属それ自体は世界的に全くありふれた現象であり、日本にとっては敗戦の当然の結果にすぎない。問題の核心は、その従属性が「否認」(フロイト)されていることだ。そしてそうである限りにおいて、この体制は、「家族国家観」によって、国家が支配の機構であることを否認し、君主が支配者であることを否認した戦前天皇制(=国体)の正統後継者なのだ。

被支配の自覚のないところに自由への希求も知性への渇望もあり得ない。「対米従属論・反米主義」でしか議論を整理できない知性もまた、糞ダサいレベルにまで零落した痴性と呼ばれなければなるまい。
この記事の中でご紹介した本
国体論 菊と星条旗/集英社
国体論 菊と星条旗
著 者:白井 聡
出版社:集英社
以下のオンライン書店でご購入できます
このエントリーをはてなブックマークに追加
白井 聡 氏の関連記事
著者から読者へのその他の記事
著者から読者へをもっと見る >
社会・政治 > 日本の政治関連記事
日本の政治の関連記事をもっと見る >