「ファースト」を競う「普通」にして「バブリー」な新自由主義の閉塞を抜けて|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年1月1日 / 新聞掲載日:2018年12月28日(第3271号)

「ファースト」を競う「普通」にして「バブリー」な新自由主義の閉塞を抜けて

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ネオリベなる語の忌避にもかかわらず、次第に新自由主義は日本においても一種の道徳すなわち新たな「資本主義の精神」とまで化して浸透してきた。そして現在、安倍政権下で、種子法廃止、水道民営化、水産業協同組合法「改正」等々、行政的にもこの傾向にさらなる拍車を掛けている。しかし近年「北」の一部でこれらに対する反動もしくは抵抗もめだってきており、そのうち最もセンセーショナルに報じられたのが、一昨年、「ウォール街ファースト」の疑いが拭えないヒラリー・クリントンを破っての、「アメリカ・ファースト」を謳ったドナルド・トランプ大統領の選出だった。

かつてなら「国民ファースト」とは福祉国家の謂いであり、トランプが保護主義政策以上にそちらへ舵を切るかは疑わしいが、日本でも、幸福な国民国家への憧憬を以て自国民をこそ最優先すべしとの観点から安倍政権の「売国奴」政策を批判する「右」の言説が散見され始めている。新自由主義の「改革」には、国民が独占していた行政にとっての「ファースト」の地位を企業その他との競争(入札?)に掛けること、経営不振の民間企業が不採算部門を統廃合し、あるいは外資に売却するのとおなじく、しばしば安価で行政業務や国家資産を売却し、国家が負担するコストをリストラすることが挙げられる。ここにあって、「痛みに耐え」つつやがて再起を図るべく、忍び難きを忍び一丸となって勤勉に努める――そこから勝ち抜ける者が現われたときには、「感動」に感謝し応援しあえるなら、互いに株も上がっていっそうすばらしい――「未来志向」が国民の美徳となるだろう。

とまれ、「ファースト」の地位を巡る駆け引き含めて競争なのだとすれば、新自由主義体制においてこそ、レントシーキングは重要な勝因となり、である以上、そこに縁故主義やクローニズムが持ち込まれるのは避け難い。誤解されがちだが、ネオリベは自由放任による自然発生的な市場の回復をでなく、不均等な競争を導出すべく、法措定含めた極めて作為的な自由市場の整備――必然的に資本家により優位な――を重視する。最近では、社団法人日本ミャンマー協会が、ミャンマーからの「技能実習生」の管理団体を「チェック」する名目で独占的なピンハネを行なっており、そのピンハネ分は「実習生」の最低賃金以下の給与へと跳ね返っていると指摘されている(「最高顧問は麻生大臣 実習生を食い物にする〝ピンハネ協会〟」『日刊ゲンダイ』2018/11/30)。先月に問題を積み増したまま「改正」された出入国管理法が、「外国人材」派遣ブローカーのレントシーキングであることは明白にすぎる。

では、日本は「ジャパン・ファースト」の道を採るべきなのか。しかしそれは再び一国主義に依拠することにほかならず、さらに現状において、「ファースト」の特権を得る資格を持つ国民の選別が露骨に競われる――「排除いたします」と告げられる者が必ず捻出され、そのために相互に貶めあう――のがたやすく予期できるとすれば、かつての戦後民主主義を「アゲイン!」して謳歌することなど不可能だ。というか、その場合でも、いまや「ファースト」たるべき国民の枠はネオリベ的な観点から法制化含めてデザインされる対象となる可能性が高い。六年ほど前、片山さつきが自民党改憲案の前文は「国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考える」ことを意図したものと明かし、浮世離れしたカルト的復古主義者の妄言と見做されたが、むしろあれは新自由主義体制に即し国民国家を再定義せんとした際の――「ファースト」像に見解の相違があるにしろ、この限りでは数年前国会周辺に集った「俺達」リベラルが国民に名乗りを上げて昂っていたのと同様――真面目で「普通」な要請ではなかったか。

他方で、「国民ファースト」を認めないウォール街やシリコンバレーをはじめとする国際資本がトランプの反移民政策に反撥するのは見やすい道理であり、ネオリベと相容れないつもりのリベラルも概ねそれを歓迎している。だが、その反「国民ファースト」の発言で前提となっているところの、トランプを仮想敵に見立てた品行方正を含む能力主義――「我が社で働く移民は優秀です」――を鑑みるに、「みんな違ってみんないい」とアイデンティティに寛容なその空間は、オーウェン・ジョーンズ『チャヴ 弱者を敵視する社会』(海と月社・2017)が紹介した、人種差別や性差別を口にすれば即刻追放されるものの、怠惰で差別主義的で浪費にかまける「粗野な下流階級」の奴らははたして今年の冬を無事に越えることができるかな云々の発言がジョークとして一同の笑いを誘うパーティー会場と大同小異ではないのか。

実際、イギリスでチャヴは福祉を食い物にすると――そのほかあげつらわれる道徳にもとる振舞いはその恩恵に見合う国民の名に値しないと左右両派から――非難されてきたし、「一発逆転」でもしないかぎり、これまで福祉国家体制を後退させてきた反「国民ファースト」の国際資本がまっさきに無視する層にあたるだろう。加えて、件のジョークにはお行儀悪いと眉を顰めるとしても、「粗野な下層階級」の類いに対しては、マーケティング対象から除外され取り残されるのを嗤ったり、自警団ばりに道徳を説いてまわるばかりの人々が、それと知らずとも、ネオリベに正義の「心」を補完しその欺瞞の片棒を担ぎ――奴らが政治的に正しい憎悪を浴び、また嘲笑される境遇に陥っているのはその認知や人間性などが原因で、言い換えるなら自己責任であり、まずもって説教ないし罰則の対象なのだから、下部構造やら面倒なことに手を伸ばすのは余計でズルい云々――、「国民ファースト」を巡る選別に積極的に加担しているのは否めない。

むろん、「粗野な下層階級」も抵抗主体たるならばなおさら、然るべき批判を免れえないことは強調しておく。またパーティー会場が避難所となることもある。しかし共鳴しバブル化した正義の執行が現下の困難な事態を「解決」へ近づけないだろうとは、パーティー会場――著者は「バブル」と呼ぶ――を出て、共和党支持者が多いアメリカ南部の住民に取材したA・R・ホックシールド『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』(岩波書店・2018)を読んでもわかる。まして「いまの時代」このバブルに投資しなければ差別批判が不可能となったわけでもあるまい――投資セールスはかくなる法螺を吹くものだとしても。けれども「壁の向こうの住人たち」に関してむしろ顕著なのは、「ファースト」への優先順位――同情により列の順番は何度も任意に操作され、客観的には「下層」でもお情けに頼らず勤勉に努めてきた者が後回しにされていく、つまり政治的に正しいレントシーキングに映る?――に躓く彼/女らも充分に道徳的で、その差別的振舞いもそこに由来すると見受けられることだ。新自由主義にもとづき稼働する大資本とリベラルの違いは、恐らく前者が、これもバブリーな「フェイク・ニュース」に縋る「壁の向こうの住人たち」はみずからの敵でないと知っており、道徳や「生き方」探求に余念ない後者ともども利用していることに求められるかもしれない。

足許に戻れば、安倍政権によるネオリベ政策に対し、インフラの劣悪化やその利用料金の高騰などを危惧するだけでは、抵抗は難しい。そこで生ずる主体はせいぜい生活者などの曖昧な名辞しか持たないだろうからであり、それでは「外国人材」なる名称の批判もままならない。まず抵抗の主体化が、下部構造――直近に労働法「改正」をみた――を問うことと併行して試みられなければならず、そしてそのことは、外国人労働者や入管センターに収容された移民も含めて為される必要がある。主体化は「ファースト」を競う新自由主義のゲームの規則の上では起こらない。
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