共作という化学融合、多和田葉子祭り ヤマザキマリ+とり・みき「プリニウス」、沼田真佑「陶片」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

文芸
更新日:2019年1月1日 / 新聞掲載日:2018年12月28日(第3271号)

共作という化学融合、多和田葉子祭り ヤマザキマリ+とり・みき「プリニウス」、沼田真佑「陶片」

このエントリーをはてなブックマークに追加

ずいぶん昔の話だけれど、ある批評家が文芸時評を担当することをバッターボックスに立つことだと言った。そういう意味では私—— おそろしく打率の低いバッターかもしれないが——に打順が回ってきたわけだ。一年間ひそやかにバットを振り回して行きたいと思う。

突然だが、キャラクターソング界の最強タッグは花澤香菜とmeg rockだと信じて疑わない私である。互いの持ち味が掛け合わされることで、奇跡的に歌謡曲の限界を突破し、新たな存在様式を誕生させる。共作という化学融合にはそのような力があるのだ。今号の『新潮』には、例の騒動で休刊した『新潮45』からの移籍新連載としてヤマザキマリ+とり・みき「プリニウス」が登場している。この漫画にも同様の化学反応が見られるのである。緻密な描画は、分業と呼ばれるだけで片付くものではない。二人のアイディアと描写力が絡まり合って、読者をリアルな、いにしえの世界へと没入させる高次元の漫画表現が生まれるのだ。

本作は古代ローマが舞台。「科学的な考察を大事にしつつ、一方で幻想的、空想的なものを切り捨てない」(既刊の第一巻に付されたとりマリ対談より)想像力と好奇心を持ったプリニウスが、世界各地での自然現象を観察するために旅を続ける。古い時代を描きながらも、それが現代性を帯びて読者に他人事だと思わせないのは、描かれている古代のイタリアが天災の多い地域であり、その施政者が愚鈍だから。そのなかで自然と共生する人間とは一体何者なのか、が、この漫画の問いなのだろう。そこに二人の作者は真摯に向き合っている。つまるところ、この漫画は「震災後漫画」として読めるのである。

今回の物語は施政者の妻が死に、ローマの街がますます狂っていくところから始まる。一方で、プリニウス一行はクレタ島で謎の化け物と出会う。「神よりも自然の方が面白い」とする彼らの精神は、巨大な災害と向き合わざるを得ない私たちに、今、探求することのなんたるかを教えてくれる。

それ以外のところに目を配すと、文芸誌は先日、『献灯使』が全米図書賞の翻訳部門を受賞した多和田葉子祭りであることがわかる。奇しくもリービ英雄との(『すばる』)、それから温又柔(『文學界』)との二つの対談はエクソフォニーを巡るものであった。私見ではエクソフォニーという言葉は十五年前、多和田葉子によって提唱された際には実感の伴わない概念の原石のようなものだったように思う。それが時を経て、近年こうして切実な問題として結実してきた。それは世界中の移民を取り巻く情勢、そのなかで登場してきた温又柔らのような作家が描く物語の力がためでもあるだろう。また、多和田による長編「星に仄めかされて」(『群像』)は『地球にちりばめられて』の続編。母国を失うこと。言語を取り戻すこと。新たな未来予想図が描かれている。大傑作の予感。

古川真人「ラッコの家」(『文學界』)は八十歳を過ぎた老女とその姪、さらにその娘の三世代が織り成す会話劇である。血縁で結ばれたもの同士がそれぞれに温かな言葉を手渡す、その感覚が心地よい。そして、その合間に、老女が過去に対する追憶、さらに、現在の「ぼんやりとした想念と想念のあいだ」に溺れていく、その様が生の侘しさを感じさせる。力作である。が、最後、作者——老女ではなく、作者——は力尽きてしまう。ここはもう一歩踏ん張って、老女を想念のあわいから救い出してあげて欲しかった。

短編では沼田真佑「陶片」(『文學界』)が素晴らしい。淀んだ油の中に水を一滴垂らした状態のような、言いようのない人間社会の交わらなさが描かれている。また、この人の描く、人間の一つひとつの仕草は、そこに思索が宿っているようで面白い。

さらに古井由吉のインタビュー(『すばる』)も秀逸。聞き手が四十年も前(!)の古井のちょっとした発言を切り取り、投げる。そこから古井が自ら古井由吉論を展開し始めるのだから、実にスリリングである。
このエントリーをはてなブックマークに追加
長瀬 海 氏の関連記事
文芸のその他の記事
文芸をもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究 > 日本文学研究関連記事
日本文学研究の関連記事をもっと見る >