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更新日:2018年12月28日

2018年読書人ウェブ 書評アクセスランキング

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読書人ウェブでは2018年は850本あまりの書籍の書評を掲載させていただきました。その中でもアクセスの多かった記事をご紹介します!!

1位
他に類を見ない哲学と現実の架橋を試みた「新しい実在論」
なぜ世界は存在しないのか
著 者:マルクス・ガブリエル  


本書は二〇一三年に刊行されるやいなや哲学書としては異例のベストセラーを記録し全世界を驚愕させた、哲学界の新星マルクス・ガブリエル(当時三三歳)の出世作である。

本書の内容を一言で言えば、それは現代に巣喰う「無意味」の底をぶちぬいて「意味」へと突破しようとする哲学的思索の努力と要約しうるであろう。

ガブリエルによると、私たちは二重の無意味にとりつかれている。第一に、自然科学的世界像が唯一正しいとされるものの、そこには人間の居場所がどこにもない。このような状況に面してポストモダンは、科学的世界像も含め「あらゆるものは幻想である」と主張した。しかし第二に、このように言うことによってこの立場そのものも一個の幻想と化してしまう。こうした二重の無意味に囲まれながら、私たちは意気消沈し、なす術を知らず相変わらず自然主義の抑圧に屈している。

本書の内容を一言で言えば、それは現代に巣喰う「無意味」の底をぶちぬいて「意味」へと突破しようとする哲学的思索の努力と要約しうるであろう。書評の続きをを読む
2位
かくれキリシタン「禁教期変容論」を民俗誌的研究により問い質す
かくれキリシタンの起源 信仰と信者の実相
著 者:中園 成生


最近、ユネスコの諮問機関が、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のユネスコ世界遺産リストへの登録を勧告した。禁教期にもかかわらず密かに信仰を継続した長崎と天草地方における潜伏キリシタンの独特の文化的伝統の証拠としての価値が認められたという。

私たちは、日本のキリシタン禁教や、この「かくれキリシタン」について、なんとなく何かを知っている、つもりでいる。「かくれキリシタン」とは、厳しい禁教のもと外部に秘したまま世代を超えて信仰を維持し、いつしか、本家のキリスト教と異なった民間信仰とも言えるような変化を遂げた信仰、といったイメージだろうか。中園は、禁教期に本家のキリスト教と隔絶し潜伏することで独特な「変容」を遂げたという、「かくれキリシタン」の捉え方は、少なからずこれまでの研究をも拘束してきたと、問い質す。

本書は、このいわゆる「禁教期変容論」を、キリシタン信仰の要素のみを取り出して論ずるのではなく、一般信者たちの信仰生活の総体を検討することによって相対化していく。

ならば、書評の続きをを読む
3位
一途に駆け抜ける「見えない者」と戸惑いさまよう「見える者」を描く
伴走者(浅生 鴨)講談社
伴走者
浅生 鴨
講談社
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伴走者
著 者:浅生 鴨


この物語はマラソン編とスキー編にわかれており、いずれも視覚障碍者アスリートの目となって寄り添う伴走者を主人公に語られる。ふたりの主人公はピークを過ぎてはいるが、健常者レースの世界では優秀な選手だった。どちらもやむを得ない事情で不承不承、経験したことのない障碍者競技の伴走を引き受けることとなる。

恥ずかしながら私は、視覚障碍者のスポーツについて、なにも知識がなかった。 「伴走者」と聞いてなんとなく、なにをやる人なのかは想像できるが、なにを察知し、どんな洞察をし、どのような伝え方をすることが要求されるのか、これっぽっちも知らなかった。ましてや、どんな気持ちで視覚障碍者とむきあうべきなのかなど、想像することもできない。本作のふたりの主人公達も、それは同じだった。

そんな手さぐり状態の主人公を、視覚障碍を持つアスリート達が導いていく。どちらが伴走者なのか、わからなくなるぐらいに。そう、本作では一途に駆け抜けようとする「見えない者」と、戸惑いさまよう「見える者」が描かれていくのだ。そこにおおいに引き込まれた。書評の続きをを読む
4位
作家が持っていた比類のない独自性は今後どう生かされるのか
送り火(高橋 弘希)文藝春秋
送り火
高橋 弘希
文藝春秋
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送り火
著 者:高橋 弘希


もう十年以上前のことになるが、当時三十三歳の男性が、高校時代に自分をいじめた同級生の家に爆発物を仕掛けようとして失敗、逮捕された事件があった。十五年以上も前のいじめに対する報復としては過剰な印象を与えるかもしれないが、かつていじめられっ子だった私にはよくわかった。一度いじめられた人間は、「いつかまたいじめが始まるのではないか」という恐怖から逃れられない。それを逃れるにはいっそ我が身を人外へと変えて、自分自身が手の出しようもない恐怖の対象となるしかないのである。

最新の芥川賞受賞作である高橋弘希の『送り火』はいじめ小説である。この作家の小説は、語り手が焦点のぴたりとあったカメラのような観察力を持っているのが特徴だ。この作品では転勤族の少年・歩が青森県平川市近郊の廃校寸前の中学校に三年生の一年間だけ通うことになる。そこで歩は五人の同級生の力関係を観察し、その中にうまく自分を位置づけることに成功する。リーダーの晃と仲良くなり、同級生らのナイフの万引きに参加し、時折暴力的ないじめが噴出する中でも、うまく中立的な観察者の立場に身を置いたかに見えた。書評の続きをを読む
5位
孕む身体は誰のもの? 妊婦表象を規範から解き放つ試み
〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する
著 者:山崎 明子、藤木 直実


2017年にオリエント工業の創立40周年を記念して渋谷でラブドール展が開かれた際、観客に女性が多い現象に着目した記事が出た(『朝日新聞』2017年6月7日朝刊「精巧ラブドール展 目立つ女性」)。美を追求した人形のきれいなメイクに感嘆したり、憧れの対象として愛でたりする女性たちに、私も会場で遭遇した。ラブドールは男性を対象に作られたもの、という文脈を離れ、女性が女性の身体と出会う空間にもなっていた。

ラブドールを所有する男性の中には、人形を大切に扱い、人形と自分の間で新しい物語を紡ぎ、関係を構築する人もいるだろう。本物の人間にそっくりでありながら本物ではないところにも人形の魅力は存在する。しかし、もし、人形がその域を超えてしまったとしたら? 書評の続きをを読む
6位
批評の自由を求めて 「越境する知」としての批評
現代日本の批評 1975-2001
著 者:東 浩紀、市川 真人、大澤 聡、福嶋 亮大


かつて批評は文芸批評だった。文学を語ることが社会を語ることであり、政治を語ることだった。しかし、そのような回路を結ぶことができなくなった。本書はその起点を1975年にさだめ、2001年までの批評を、東浩紀、市川真人、大澤聡、福嶋亮大の四人の討議でふりかえっていく。しかし、約四十年間の歴史は決して華やかなものではない。本書で東は批評を「観光客的な知」であり、「越境する知」であるとしている。必然的にその観点から歴史が描かれるが、それは苦闘の歴史であり、失敗の歴史だ。

柄谷行人、浅田彰らの座談会『近代日本の批評』が本書の元ネタになっているが、彼らが創刊した『批評空間』の評価は高くない。70年代以降、文芸批評の穴を埋めるかのように、哲学、社会学、人類学、心理学などのさまざまなジャンルの書き手が批評に参入した。そして、マンガや、SF、ミステリーといった純文学以外の場で文学性がつちかわれたが、時代の流れに逆行するように『批評空間』が文学の復権をとなえたため、批評の多様な可能性は失われてしまったという。書評の続きをを読む
7位
性暴力が被害者の精神に与える深刻な影響を開陳 今、本書が登場した意味を考える
私の中のわたしたち――解離性同一性障害を生きのびて
著 者:オルガ・R・トゥルヒーヨ


本書は31歳のとき「解離性同一性障害」と診断されたヒスパニック系アメリカ人女性(職業は弁護士となっている)が、その原因とする幼少期からの父親および男兄弟による性的虐待の過去と、社会人になったのちに受けた精神科医による治療の過程とを記したものである。「解離性同一性障害」などというと、いかにも難解な響きがあるのだが、以前は「多重人格」とよばれて、精神医学領域のみならず広く一般にも知られていた。かつての一時期には、多重人格に関する本が流行し日本語にも翻訳された(『失われた私』『24人のビリー・ミリガン』など)。また、日本でも連続幼女殺人事件の被告の精神鑑定でこの病名が挙げられて話題となった。

こうした多重人格はどのようにして生まれるのであろうか? 本書をはじめとする多くの書物には、その背景に虐待とそれに伴う外傷体験があるとする。すなわち、耐え難い恐怖や苦痛を伴うストレス体験には、それを記憶から切り離そうとするメカニズムが働く。しかしながら、この解離された記憶は完全に無化するわけではなく、別人格(本書のタイトルにある「私の中のわたしたち」)を形成してその中で生き続ける。つまり、不快で恐怖に満ちた体験とそれに伴う記憶が切り離されて別人格がそれを引き受ける形で存続する書評の続きをを読む
8位
瑠璃をめぐる三十四年の物語 いまこの目の前にいるのはだれなのか?
月の満ち欠け(佐藤 正午)岩波書店
月の満ち欠け
佐藤 正午
岩波書店
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月の満ち欠け
著 者:佐藤 正午


歳を食うと小説片手にこんな体験は稀になるが、貪り読んだ。村上春樹や池井戸潤でもこうはいかない。直近では又吉直樹の『劇場』で近い体験をした。なにがそうさせるのか。その前に。

帯に「二十年ぶりの書き下ろし」「新たな代表作」とある。佐藤本人曰く(『正午派』)「百万部売れる本を」と言う山師っぽい編集者にその気にさせられ書いた『Y』、以来の書き下ろしだ。今回も「百万部で新たな代表作」みたいな話があった、かどうかは知らないが百万部売れてもおかしくないくらい、面白い。

語りの時間は午前十時半に始まり午後一時すぎに収束する。三時間弱。八戸駅七時十七分発のはやぶさ8号に(おそらく)乗車し十時三十二分に東京駅に着いた小山内堅が、東京駅十三時二十分発のはやぶさ21号に乗って帰路につくまでだ。なぜ小山内はそんな慌ただしい行動をとったか。それは、六十すぎの小山内だが、母や交際相手に自分が東京駅のホテルでとある母娘に会うのを知られたくないためであり、普段通り会社に出勤していることを装うためだ。書評の続きをを読む
9位
その二重性を明確に位置づける 独創的で興味深い見解を随所で披露
『悪の華』を読む (安藤 元雄)水声社
『悪の華』を読む
安藤 元雄
水声社
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『悪の華』を読む
著 者:安藤 元雄


確率論史である。だが、副題の「古代の推論術から確率論の誕生まで」(原題では「パスカル以前の証拠と確率」)なる文字列に首をかしげる読者もいるかもしれない。蓋然性(probability)についての学問、すなわち確率論(probability theory)は、そもそもがパスカル(とフェルマー)によって開始されたいうのが通説であるからだ。この観点からすると、パスカル以前の時代を扱うと称する本書の試みは、ずいぶんとパラドクシカルなものに見えるにちがいない。

しかし、そうではない。蓋然性という概念をもう少し広く、必ずしも数学化されたものとはかぎらない「確からしさ」ととらえてみよう。そうすると、パスカル以前にもすでにたくさんのアイデアが生まれ、用いられてきたことがわかるはずだ。著者フランクリンは、古代から初期近代にいたるまでの法、商業、科学、哲学、論理学等々の文献を調べ上げ、次々とその証拠を挙げていく。確率論そのものは一六五四年にパスカルとフェルマーによって誕生したが、それ以前もそれ以後も、人びとは数学者や統計学者の導きなしに不確実性と取り組んできたし、その方法について考えを深めてきたのである。書評の続きをを読む
10位
個人のジェンダー的変化によっていともたやすく崩壊する秩序
コンビニ人間(村田 沙耶香 )文藝春秋
コンビニ人間
村田 沙耶香
文藝春秋
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コンビニ人間
著 者:村田 沙耶香


『コンビニ人間』は秩序を巡る小説である。

主人公の古倉恵子は、十八年間コンビニでアルバイトとして勤務している三十六歳の女性だ。彼女は幼い頃から、人間らしい感情を持てない異常者として扱われてきたが、それでもどうにか社会の成員として暮らしていくために、知り合った人間の喋り方や表情を模倣し続けている。そこには異常というレッテルを張られた人間が、普通とされる人間を擬態することで秩序の中に自分を位置付けるという構造が見て取れる。

古倉にとって、コンビニとは常に正常さが保たれる空間だ。並べられる商品や働く人間が変わっていこうと、店員としての役割を皆がこなしている限り、そこでの秩序が崩れることはない。言い換えればそれは、中で働く人々の個性など関係なく、全員が店員として均質化され、システムの中に組み込まれていくような環境である。書評の続きをを読む
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