歴史からの黙示—— アナキズムと革命(増補改訂新版) 書評|千坂 恭二(航思社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年1月12日 / 新聞掲載日:2019年1月11日(第3172号)

歴史的著作が半世紀ぶりに復刊
〝アナキスト党による独裁政権の樹立〟を求めて

歴史からの黙示—— アナキズムと革命(増補改訂新版)
著 者:千坂 恭二
出版社:航思社
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 監獄こそが革命家を育てるとはよく云ったもので(それを云ったのはまあ、アナキズム理論書たる本書でも当然ながら徹底批判の対象となっているレーニンではあるが)、私もまた02年から04年にかけての獄中体験によって、自己を革命家として完成させた。

入獄前の私も、そこそこ〝いい線〟までは行っていたと思う。初期衝動の延長で、凡庸なリベラル派から出発して徐々にラジカル化しながら無邪気に暴れ続けられたのは90年までで、以後、ぴったり20代と重なる90年代を、私はほとんど誰とも問題意識を共有しえないまま孤独な試行錯誤に費やした。内心ではアナキストを自認していたが、社民派やマルクス派と馴れ合う同時代のほぼすべてのアナキストたち(本書に云う「公許アナキスト」とその末裔たち)と一緒にされてはたまらないので、決してそうは自称しなかった。当時の私が依拠しえたのは『テロルの現象学』の笠井潔のみで、笠井に倣ってブランキストを自称した。いわゆるポリコレ的なものは左派の世界をすでに席巻しており、自己流に捻り出した〝オレ様主義〟なる理念をこれに対置して、怠惰なので読みはしなかったが、シュティルナーの云う〝唯一者〟とはニーチェ的アナキズムの表現に違いあるまいと見当をつけてはいた。そのことと関連して、正義感ではなく被害者意識から出発しなければならないが、やがて反転して、自らを抑圧してきた世界への加害者として自己を規定し直した時に人は初めて革命家となりうるのだ、などと書きもした。

いろいろと複雑な表層を剥ぎとって結論だけ云えば、私は社民派やマルクス派との抗争に敗北した結果として投獄されるに至るのだが、その時点で、革命家としてまだまだ未熟だった私は強い被害者意識に苛まれていた。ほとんど誰も注目していないマイナーな闘争に敗れ、人知れず世界の果てのような場所に打ち捨てられたような惨めな気分だった。どうしてこんなことになってしまったのか、私はそれまでの全過程を繰り返し反芻しながら、思索の糧となるものを求めて大量の本を読んだ。2年間の獄中生活のちょうど折り返し地点で、私はムソリーニの伝記に出会い、天啓に打たれた。アナキストが〝党〟を形成し、かつ〝アナキスト党一党独裁〟の革命政権樹立を目指すというアクロバットによって、つまりファシズムという路線を選択することによって、初めて社民派やマルクス派を粉砕し、そればかりか現存の国家権力をさえ打倒する展望が拓かれる。自由とは、権力的なるものから可能な限り身を引きはがすことによって得られるのではなく、自らが権力となることとイコールであり、〝権力への意志〟とはそのことの謂いだったのだ、とも。回心と同時に被害者意識も消え失せた。私のいる狭い独房は今や世界の中心であると感ぜられた。私は裁かれてここにいるのではなく、むしろ私自身が今まさにここで世界を裁いているのだと分かった。ファシストとして生まれ変わってみると、長らく馴れ親しんだ『テロルの現象学』の論理を、まったく別の形に換骨奪胎(というか悪用?)しうることが我ながら愉快だった。同書で徹底批判されていたネチャーエフのほうこそが正しくラジカルであり、スターリニズムの核心にあるとされた党派観念は、そこから真理の体系を自認するマルクス主義をさえ引き算すれば、そのまま〝アナキズム版のレーニン主義〟たるファシズム運動の核になるものと考えられた。党派観念の析出を結果する〝人民こそが革命の敵である〟という確信は、スターリニズムにおいては隠蔽されるが、革命家と人民とを〝指導-被指導〟の関係ではなく端的に断絶したものと見なすファシズム運動においては堂々と公言してもよい、『人民の敵』を機関紙の名称としてもよいぐらいの大前提である。満期釈放の日、私はまさに山を降りようとするツァラトゥストラそのものとして刑務所の門を出た。

ちょうど20歳年長の千坂恭二の知遇を得たのは、出所から3年ほどを経た07年のことである。初対面で意気投合し、その後しばらくして、長らく入手困難となっていた本書の旧版を寄贈された。一読して、途方もないショックを受けた。私がオリジナルに思いついたつもりでいたことが、しかもはるかに緻密な論理で、はるかに原理的なところから、ほとんどすべてとうの昔に(私がまだ2歳の時に!)書き記されていたことが分かったからである。今回の増補に際して新たに収録された文章などは、おそらくは10代のうちに書かれたものだが、そもそも千坂は〝アナキスト党〟をその活動履歴の最初から志向しており、ブランキやネチャーエフやシュティルナーはもちろん、30代にしてファシズム転向を済ませてなお関心の対象としては私の視野に入っていなかったバブーフやサヴィンコフその他への言及もすでにおこなわれている。〝アナキスト党による独裁政権の樹立〟など少しも特異な発想ではなく、アナキズムの大御所であるバクーニン自身がそれを幾度も公言していたのに、その後継者を気取るクロポトキンによって隠蔽されただけなのだということも、千坂が22歳の時に上梓した本書の中で何度も繰り返されている。アナキズムとファシズムの近縁性についても、その双方を同時に見事に体現した人物である(らしい)エルンスト・ユンガーを千坂が70年代後半に発見する以前の著作であり、いまだファシズムには原則的な否定のスタンスを維持しながらではあるが、すでに言及がある。

一方で、革命のあらゆる
可能性が模索された〝68年〟を実体験した、つまり千坂と同世代以上にはいざ知らず、それらがすべて不可視化された80年代半ば以降に、つまりまったくのゼロから自身の運動を試行錯誤し始める以外になかった、70年前後生まれの我々〝ドブネズミ世代〟(その試行錯誤の全体像は過日刊行の拙著『全共闘以後』で示した)もしくはそれ以下の世代で、本書における諸々の問題提起を我が事として受け止めうる者は、私(と私が主宰する九州ファシスト党に早くも身を投じているごく数名の若者)以外に存在すまいことを確信し、かつそのことに苛立ちを覚えたのだが、それから数年を経て、この歴史的著作が実にほぼ半世紀ぶりに増補版の形で復刊される運びとなった現在、かつて千坂が徹底的な批判を加えた、革命思想としてはまったく無力な「公許アナキズム」をさらに百倍も水で薄めたような、例えば栗原康の〝アナキズム本〟がおそらくは万単位の読者を獲得している状況は、本書の意義を理解しうる新しい世代の読者を潜在的にでも増やしているのか、それともますます減らしているのだろうか?(とやま・こういち=革命家)
この記事の中でご紹介した本
歴史からの黙示—— アナキズムと革命(増補改訂新版)/航思社
歴史からの黙示—— アナキズムと革命(増補改訂新版)
著 者:千坂 恭二
出版社:航思社
以下のオンライン書店でご購入できます
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