芥川龍之介氏自殺す 或旧友へ送る手記|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読写 一枚の写真から
更新日:2019年1月22日 / 新聞掲載日:2019年1月18日(第3273号)

芥川龍之介氏自殺す 或旧友へ送る手記

このエントリーをはてなブックマークに追加
七月二十四日の払暁、氏は東京市外田端なる自宅に於て多量の劇薬を嚥下し、同日午前七時遂に死去するに至った。遺書数通、その中に『或旧友へ送る手記』と題したる半裁原稿用紙十八枚のものは氏が自殺を決行するに至るまでの心的経過を詳細に記述したるもので……。(『歴史写真』昭和二年九月号)
 昭和と年号が代わって半年あまりが過ぎた、二(一九二七)年七月二十四日、文壇に大きな衝撃が走った。

作家の芥川龍之介が、東京田端の自宅で服毒自殺した。三十五歳の若さだった。

東京帝大在学中の大正三(一九一四)年に一高同期の菊池寛、久米正雄らと同人誌『新思潮』を刊行して、秋から作家活動を始めた。

短編小説を中心に、『羅生門』『地獄変』『藪の中』『蜘蛛の糸』『河童』などなど、いまなお日本を代表する文学作品を書いて、大正時代を彗星のように走り抜けた。

これは、『歴史写真』昭和二年九月号に掲載された芥川自殺を報じる一ページだ。

下の写真は、集まった文学仲間や新聞記者に遺書を朗読している久米正雄、「神経衰弱による」と、自殺の原因は発表された。

「旧友」への手記に自殺の動機と書いた「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉は、昭和の幕開けの世潮を語るものとして独り歩きをはじめて、今に伝えられている。

たしかに、昭和は「不安」とともに始まった。大正天皇が年末に崩御したので「昭和元年」は一週間しかなく、二年三月十四日に片岡直温蔵相が議会で「東京渡辺銀行が破綻した」と発言したことが引き金になって、昭和恐慌が起きた。この発言は事実誤認の失言だったが、昭和という時代は暗い坂道を転げ落ちていくような時勢に突入したのだった。

芥川の「不安」は、この破綻より早く心中に芽生えて心身を蝕んでいた。「手記」には「この二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた」とあるが、「死」が芥川の心にずっと住み着いていた思考だったと思われる片鱗が、「仙人 オトギバナシ」という短編にのぞく。この作品は『サンデー毎日』創刊号(大正十一年四月二日発行)に掲載されている。芥川は大正八年から大阪毎日新聞に在籍し、寄稿していた。

仙人になりたいと口入屋(就職斡旋業)にやってきた「田舎者の男」がいた。その場逃れで紹介した医者が男に「どうして仙人になりたいのか」と尋ねると、「人間というものは、いくら栄耀栄華をしても、はかないもの」だから仙人になりたいのだという。

医者は二十年ただ働きさえすれば仙人になる方法を教えるとだまして働かせ、その女房の言いつけ通りに松の木に登って両手を離したとたん、男は天に昇って仙人になったという。

死ぬことを考える芥川は、早い時期から仏教の無常観を抱いて生きていたことが、この一言からもうかがえる。

芥川の鋭い感性が、始まったばかりの昭和の世に流れる「不安の靄」をとらえて、自らの無常観に結び付いていたのかも知れない。

恐慌に続いて日本、いや世界を襲った大凶作が、多くの人の命を奪っていった。

「悲しい、悲しい凶作、こんど生まれる時は百姓ではなく、えらい人に生まれて来ます」(『日本の百年7 アジア解放の夢』)と書き遺して死んだ岩手県の十五歳の少年の嘆きは、芥川とはかけ離れているようだが、明日への光が見えない藪の中でもがく姿が重なって見える。

親友で文藝春秋社主の菊池寛が創設した新人文学賞「芥川龍之介賞」は、いまも作家の登竜門であり、二〇二三年には東京都北区が芥川旧居跡地に「芥川龍之介記念館」(仮称)を開館予定だ。墓地は巣鴨の染井霊園横に在る慈眼寺にある。(いわお・みつよ=ジャーナリスト)
このエントリーをはてなブックマークに追加
岩尾 光代 氏の関連記事
読写 一枚の写真からのその他の記事
読写 一枚の写真からをもっと見る >
歴史・地理 > 日本史 > 昭和史関連記事
昭和史の関連記事をもっと見る >