宰相の象の物語 書評|イヴォ アンドリッチ(松籟社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年1月26日 / 新聞掲載日:2019年1月25日(第3274号)

生まれ故郷ボスニアを舞台に
現代の混沌とした時代にこそ読まれるべき物語

宰相の象の物語
著 者:イヴォ アンドリッチ
翻訳者:栗原 成郎
出版社:松籟社
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本書は、イヴォ・アンドリッチ(1892―1975)の未訳作品4作―『宰相の象の物語』(初出1947年)、『シナンの僧院に死す』(1936年)、『絨毯』(1948年)、『アニカの時代』(1931年)―を収めた翻訳書である。作者アンドリッチは、20世紀バルカン半島に存在した多民族国家ユーゴスラヴィアを代表する作家、1961年には「自国の歴史に題材して主題を追求し人々の運命を描いた叙事詩的筆力」により、ノーベル文学賞を受賞した。生まれはオーストリア支配時代のボスニア、のちに外務省に入省し1939年にはベルリン駐在ユーゴスラヴィア全権大使の命を受ける。時はナチスドイツの脅威がヨーロッパを覆いつつあった頃、小国である祖国の無力さを目の当たりにした外交官の心中はいかばかりだったか。1941年4月6日のドイツ空軍によるベオグラード爆撃の翌日、アンドリッチはそのベオグラードに帰還し大戦中この街に沈潜して、代表作となる『ドリナの橋』や『ボスニア物語』(原題は『トラヴニク年代記』)、『サライェヴォの女』(原題『お嬢さん』)を執筆する。戦後次々に刊行されたこれらの作品によって彼はユーゴスラヴィア随一の作家としての地位を不動のものとし、同時にこの国の風土と文化を世界に知らしめたのだった。

そんなアンドリッチは、上記の代表作3作も含め、多くの作品の舞台を生まれ故郷ボスニアに設定し、その土地と人々を描くことで自身の創作世界を確立した。彼の作品に登場するボスニアの人々は、権威や権力とはほど遠い世界にあって素朴で優しくしかしその弱さと優しさゆえに世界に振り回され、ときに凶暴になり悪と化す。本書表題作『宰相の象の物語』はオスマン支配時代末期のボスニアの町トラヴニクが舞台、そこに赴任した宰相―ヂェラルゥディン―パシャという、ただ支配欲と権力欲にとりつかれた男-が連れてきた一頭の象が引き起こす混乱が描かれる。宰相への恐怖と憎悪は象に投影され、「信仰と伝統から言って、すべての動物を保護し、害獣さえも保護し、犬や猫や鳩に餌を与え、害虫も殺さない」人々が、宰相の象に対しては「敵を憎むように象を憎み、その殺害を企てていた」(本書38ページ)。敵意は膨張し、人々は象を殺そうと悪意をつのらせるが、やがて宰相はより大きな権力に滅ぼされ、象も死に、後には宰相の墓と象の物語と、しぶとく地にはりついた人々の生活が続くのみだった。

アンドリッチの描く女たちも弱く素朴だが、彼女たちはしばしば男たちより強い。というのも彼女たちには、男の世界を支配する特別な力があるから。本書に収録された『アニカの時代』は、さえない女の子だったアニカが美しく育ち、けれど愛の不成就をきっかけに娼館を開いて男たちの世界を撹乱する話。ここに描かれた美しく力強い目をした罪悪の女王は、運命に果敢にいどみそして破れるが、その姿はまた、『ドリナの橋』に登場する、同じように美しく力強く、けれどあらゆる悪を遠ざけて生きそして果てたロティカの反転像ともいえる。

人類は「無数のバリアントにおいて同一の物語を絶えず語りつづけてきた」ようにみえるかもしれないが、と訳者栗原成郎氏は解説で、アンドリッチのノーベル賞受賞記念講演の言葉を引用して述べている。ボスニアの民衆に語らせる物語は、一種の自己防衛なのだと。ならばアンドリッチのこれらの物語は、現代の混沌とした、まさに自己防衛が必要な世界においてこそ、読まれるに値するだろう。
この記事の中でご紹介した本
宰相の象の物語/松籟社
宰相の象の物語
著 者:イヴォ アンドリッチ
翻訳者:栗原 成郎
出版社:松籟社
以下のオンライン書店でご購入できます
「宰相の象の物語」出版社のホームページはこちら
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