戯れの魔王 書評|篠原 勝之(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年2月2日 / 新聞掲載日:2019年2月1日(第3275号)

戯れの魔王 書評
〈オレという他者〉の物語
並の老境小説とは異なる魅力!

戯れの魔王
著 者:篠原 勝之
出版社:文藝春秋
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戯れの魔王(篠原 勝之)文藝春秋
戯れの魔王
篠原 勝之
文藝春秋
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 泉鏡花文学賞受賞の『骨風』に続き、作者の実相に近い語り手「オレ」が登場する。「オレ」は鉄の彫刻に挑み、山岳地帯で暮らしている。父母、弟、村人など登場人物も重なり、一見続編のような雰囲気だ。しかし、冒頭の「蓮送り」こそ母の死を描くが、『骨風』が虚実の交錯の中で死の風景を描くのに対し、全四作の本書は、そこから身を引きはがすようにして老いの生の切実なかけひきが描かれる。

甲斐駒ケ岳への登山を描く「アマテラスの踵」。旧知の「マロ」(もちろん舞踏家の麿赤児がモデルだろう)にさそわれ舞踏の舞台に出た顛末を描く「戯れの魔王」。体の変調に苦しみながら蓮を植え替えるための池を掘る「ささらほーさら」。これらは、死の影の中で新たな生の循環が生まれる手応えをとらえる。循環とは「オレ」にとっては作品の制作とそれに関る日々の生、その拠点である山岳地帯の自然をめぐるものだ。

それは調和や平静、ましてや「芸術」になどにむかわない。残された唯一の資源である肉体(臭覚と片方の聴覚を幼い頃に失い、そしていまや老いにさらされる)で、「自分の躰を使い尽くして往けるところまで往く。ここから先の生のジカンは自分の躰を使った生体実験なのだ」(「戯れの魔王」)と書くほどの苛烈なものをはらみながら、見えない何かを追い求める。しかしこの苛烈さは、都会を「シチー」と呼ぶようなとぼけた語り口によって笑いとばされる。それがこの作品集の、並の老境小説とは異なる魅力だろう。

生と死が向き合う主戦場は、本作では老いた肉体だ。死の床で意識の無い母親が動かす手。安全靴で山を登った愚かさによって刻印された踵の傷と痛み。蓮を植える土をこねる裸足の感触。だが私がもっとも心を動かされたのは、表題作ともなった「戯れの魔王」の「マロ」が教える歩行だ。全く舞踏経験がない「オレ」を「マロ」は舞台に誘い、「をどり」としてのひたすらゆっくり歩くことを命ずる。「ゆっくりゆっくり。自分というトーフみたいに柔らかいものを落とさないように」。それは、情報とテクノロジーの津波に老いや死が押し流されてしまった現在に向けて、生命の本源的な力を対置する行為なのかもしれない。

「オレ」はその稽古の最中、かつて所属した「アングラ劇団」の「パレスチナ公演」の際に、路地を歩いていてスパイと疑われ、兵士に拉致された恐怖を思い出す。事実ならば、唐十郎率いる状況劇場のシリア/レバノン・パレスチナ難民キャンプ公演『パレスチナ版・風の又三郎』(1974年)だろう。劇団員・井出情児が撮ったその記録映像を見たことがあるが、若き篠原の「踊り」を練習する姿が映っている。そこからはるかに歩いてきてしまった時間の苦みと、舞踏を通して出会う生の充溢が、この小説に稀な力を与えているように感じた。

日常の会話や出来事と虚構や記憶を構成し、〈オレという他者〉の物語を紡ぎ出す方法は、作者にとっては何かを追って鉄やガラスを加工するのと同じ作業なのではないか。言葉においても、篠原勝之は造形作家なのだ。()
この記事の中でご紹介した本
戯れの魔王/文藝春秋
戯れの魔王
著 者:篠原 勝之
出版社:文藝春秋
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