連載 ルノワールと翻案 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 92|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
更新日:2019年2月2日 / 新聞掲載日:2019年2月1日(第3275号)

連載 ルノワールと翻案 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 92

このエントリーをはてなブックマークに追加
『乙女と死』(ドゥーシェ監督)撮影現場

HK 
 ルノワールの翻案作品に関して前から気になっていることがあります。大部分の映画は押し付けられたものだったのではないでしょうか。
JD 
 ルノワールの場合は、自身で望んで翻案をしていました。何度か、周囲からの提案もありましたが、そのような提案を受け入れることは非常に稀でした。
HK 
 その意味でも、ルノワールはすでにその当時の映画のシステムの外にいたのですね。
JD 
 彼は、システムの中にいました。しかし同時に、外にもいたのです。
HK 
 『娼婦ナナ』は興行的な失敗を、父親の絵画を売ることで解決したという話があります。
JD 
 それだけではなく、それに続く作品でも、例えば『素晴らしき放浪者』ですら、成功とは言えないところがありました。その作品の基となった劇作品を書いた作家が怒り狂ったのです。
HK 
 そういえば、その作品も翻案でしたね。当時の他の作品と比較しても、本当に映画的なので忘れていました。
JD 
 映画史の中でも、最も映画的な作品の一本です。そうであるにも関わらず、作者のルネ・フォーショワは非常に腹を立てていたのです。ルノワールによる映画化を、全く喜んでいなかったのです。「ルノワールは作品を裏切った」とさえ発言し、当時のスキャンダルにさえなりました。
HK 
 その反面、一作前の『坊やに下剤を』は演劇的な作品になっています。
JD 
 『坊やに下剤を』は、ジョルジュ・フェドーによる戯曲です。なので、戯曲をそのまま受け入れたのです。サイレントからトーキーへと移るために、会話の芸術を通過する必要があったのです。『坊やに下剤を』は、非常に素晴らしい作品であり、戯曲も見事なものです。フェドーは、私がこの上なく好きな劇作家です。私の意見では、フランスの劇作家の中で最も重要な一人です。フェドーは、自分のやり方で、自らの戯曲論を作り出すだけの自由さを兼ね備えていました。それが、彼を現代的な劇作家としているのです。もしフェドーの戯曲を、今日の観客に向けて上演しても、昔と変わることなく完璧に機能します。しかし、フェドーと同時代の多くの劇作家たちの作品はすでに古びており、観客を退屈させるだけです。
HK 
 僕はルイ・ジューヴェの『クノック』が受け入れられません。当時のフランス人には大受けしていたようですし、今でも好かれていますよね。
JD 
 その戯曲の作者のジュール・ロマンは、フェドーより30年後の人ではあります。しかし今日では、彼の作品は古びてしまい、機能しなくなっています。
HK 
 その『クノック』ですが、昨年オマール・シー主演でリメイクされていました。
JD 
 面白い作品でしたか。
HK 
 全く面白くありませんでした。いつも映画館で流れているフランスのコメディでした。それでも、多くの観客は非常に楽しんでいたようです。おそらくジューヴェ主演の映画の方は見たことがない人が大半だと思います。
JD 
 クノックという役は、ジューヴェにとっての役のようなものでした。劇場と銀幕で何度もクノックを演じています。しかし個人的には、ジューヴェに関心を引かれたことはありません。私にとって、その時代のスターは、ミシェル・シモンとジュール・ベリーです。ジャン・ギャバンもいい俳優です。他にも優れた俳優はいました。しかし、ジューヴェは、自分がどれだけの優れた俳優であるかを見せようとする、頭でっかちな俳優です。そのせいで、見ていると退屈に感じるのです。
HK 
 僕にとってのジューヴェは、映画のリズムを壊す役者です。ルノワールの『マルセイエーズ』でも、彼の存在が邪魔に感じます。
JD 
 そうです。彼が映画の流れを悪くしてしまうことは、多々あります。彼は自分がどれだけ素晴らしい演技をするか見せたがります。悪い俳優ではないのですが……。
〈次号につづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)
このエントリーをはてなブックマークに追加
ジャン・ドゥーシェ 氏の関連記事
久保 宏樹 氏の関連記事
ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」のその他の記事
ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」をもっと見る >
芸術・娯楽 > 映画関連記事
映画の関連記事をもっと見る >