とちおとめのババロア 書評|小谷野 敦(青土社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年2月9日 / 新聞掲載日:2019年2月8日(第3276号)

この国で文学が夢見るべき正しき幻想
大衆と教養の「結婚」、アクロバチックな設定の婚活小説

とちおとめのババロア
著 者:小谷野 敦
出版社:青土社
このエントリーをはてなブックマークに追加
 仕事が仕事だけに、発作的に小説が書きたくなり、例えば「婚活日誌」を構想したことも何度かある。しかし思えば、「婚活」の言葉の登場が最近なだけで、主題は古典でも近代でも過剰なくらいだ。暴露話に特有の下世話感が出すぎる予想にも気が引ける。だから、相手を皇族にするというアクロバチックな設定を目にしたとき――しかも事後的に見れば二人の皇族の(対照的な)結婚報道で盛り上がった二〇一八年の初頭のタイミングで――この手があるのかと深く感心した。

三十八歳大学教員(仏文学)の福鎌純次は、「ネットお見合い」のサービスを通して、当初は身元を隠していた女王・雍子と出会う。結婚の決断は早い。この種の物語はふつうロマンスの現れを待って、ぐずぐずする過程を描くのだが(作者の以前の婚活小説「東十条の女」もそうだった)、本作では一般に重要視される外見や性格、あるいは経済的条件などは問題なくクリアしていても、もっと社会的な棲み分け(分断)のようなものが、実は恋愛心理に大きな作用を及ぼすことを誇張法的に浮き彫りにする。

作者の『天皇制批判の常識』を拝読する限り、「生まれによる差別」への反対の一点において共和制論者とのことである。主張は明快だ。だが制度としての天皇制を否定すると、今上天皇の実存批判に繋がりかねない点に、後ろめたさを覚える風潮があるのは確かだろう。なにせ理想の道徳的存在であることを自ら請け負う「祈る人」であり「犠牲者」(内田樹)なのだ。しかし、その天皇家に基本的人権として守るべき人格を想定していないのが、今の象徴天皇制の矛盾の姿である。当面、解消される見込みはない。

そう考えると、本作で、純粋な文学愛の持ち主という役割を皇族に担わせていることは、似たような背理の描写に見えてくる。しかも、純次は女子大教員である。つい最近まで、趣味と教養を備えた賢い消費者であり良家の再生産者である「主婦」の養成を密かなポリシーとしてきた女子大こそ、文学部解体危機の時代において(国文学や英文学などの)伝統的文学教育を行える牙城とみなされた時期があったのは、業界関係者であれば誰もが知るところ。徳田秋聲を研究する高度な文学趣味を示しつつ、プロの学者や作家を目指すわけでもない、良き「奥さん」として「人間になりたい」だけの雍子は、いわば、失われた女子教育の最後の偶像なのだ。その意味で、彼女は存在そのものが幻想である。

加えて、本作で面白いのは、俗なもので彼らの世界の半分が構成されている事実だろう。もちろん出会い方がその最たる例だが、他にも、花袋の「蒲団」や海外の作品等からの知的な引用が、『東京ラブストーリー』から中森明菜まで、大衆文化的なアイテムに取り囲まれて「降下」させられ、並存している状態がユーモアを生む。初出で一読したときは、「とちおとめ苺のババロア」の二次的な意味に意識が及ばなかった。しかし単行本のデザインを見て、なるほど、宮家での食事の締めとして、栃木が郷里の純次のために用意されたデザートに、甘く崩れた日の丸の図柄をみてもいいのかと思った。膨らんだババロアの地に埋もれてしまった、ほのかな酸味を忍ばせる赤い苺――「おとめ」な、かわいい日の丸。近代天皇制を根本で支えるのが、そんなピンク色の大衆感覚であるのなら、いわば大衆と教養が「結婚」するハッピーエンドは、この国で文学が夢見るべき正しい(背理の)幻想なのかもしれない。考えさせる作品である。(なお冒頭の描写と、回想を挟んで話が戻る場面との整合性がないように見えるのだが、わざとだろうか。さすがに全部が夢オチということはないと思うのだが)。
この記事の中でご紹介した本
とちおとめのババロア/青土社
とちおとめのババロア
著 者:小谷野 敦
出版社:青土社
以下のオンライン書店でご購入できます
「とちおとめのババロア」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
坂口 周 氏の関連記事
小谷野 敦 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 日本文学 > ファンタジー関連記事
ファンタジーの関連記事をもっと見る >