小田実 「アンポ」の一語にこめる ――〈体制〉を打破るための運動とは何か ‘70年代知識人論 『週刊読書人』1969(昭和44)年 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人アーカイブス
更新日:2019年2月12日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第757号)

小田実
「アンポ」の一語にこめる ――〈体制〉を打破るための運動とは何か ‘70年代知識人論
『週刊読書人』1969(昭和44)年 1面掲載

このエントリーをはてなブックマークに追加
第2回
やめること、それしかない


私の安保条約に対する考えは、きわめて簡単である。やめることである。それしかない――と書くと、いまさら何をのんきなことを言っているのか、とおっしゃる人がいるにちがいない。そうした人は、世に多くいて、自分だって同意見だ、そのためにどんな運動を形成したらいいのかが問題なんだ、とことばをつづけて言うにちがいない。

なるほど、そのことにはまちがいはないにちがいない。安保条約をやめなければいけないと考えるからこそ、運動形態についてのあまたの議論がわき上って来るのだろう。ただ、人々の議論をきいていて、私はどこがでひっかかるものを感じる。人々は熱心に運動については論じたりする。しかし、ほんとうのところは、人々は、はじめから、一九七〇年に安保条約をやめることができるとは思っていないのではないか。

私は卒直にそのことを問いただしてみたことがあった。総評の岩井章氏をふくめてたいての人が、思っていない、と答えた。思っていない以上、議論は、ともすれば、安保条約をやめること自体よりも、運動をいかに形成するかという問題と、ただそれだけをめぐるものになり、そこで、さまざまな議論が展開する。なんのための運動をおこすかということよりも、いつのまにか運動のために運動をおこすという、自己目的化した運動論になってしまっている――人々の話をきいていて、私は、ときどき、そうした感想をもつ。極端な場合、安保条約をダシにして、自分の運動を強化させようとする動きも見られなくはない。六九年から七〇年にかけて、そんなふうな動きは、ますます、強くなって来るのだろう。

それでは困る。「アンポ」は運動形成のためのお題目ではない。あえて無茶な言い方をすれば、運動をおこすことなしに安保条約をやめることができるならば、運動など必要ではないのだ。「アンポ」のために運動があるので、運動のために「アンポ」があるわけではない。そこのところが、どうも逆になっているようで仕方がない。すくなくとも、六九年から七〇年にかけての世の中の動きに、私はそうした危惧を予感として感じる。

昨年十月、北爆参加の「イントレピッド」号から四人の水兵が脱走して来たとき、私たちベ平連(「ベトナムに平和を!」市民連合)の仲間は、脱走兵を助けることでベトナム反戦運動が国民の支持を失なうのではないかと激しい議論をかわした。脱走兵援助が一種の国民運動にまでなっている現在ではバカげた心配だったが、実際、そのときには、これでもう運動は終わりではないかと、みんなは思った。それでも、私たちは四人を援助することに決めたのだが、その決断の底には、たとえ運動がこの行動によって崩壊してもよいというおたがいのあいだの暗黙の合意があった。それは、もちろん、ベトナム反戦のために運動があるので、運動形成、維持のためにベトナム反戦、ひいては、ベトナム戦争があるのではないというきわめて判りきった事実にもとづいていた。
1 3
このエントリーをはてなブックマークに追加
小田 実 氏の関連記事
読書人アーカイブスのその他の記事
読書人アーカイブスをもっと見る >
社会・政治 > 日本の政治関連記事
日本の政治の関連記事をもっと見る >