開高健×五木寛之  “白夜の季節”の思想と行動 ――日本の「内」と「外」から現代の状況を考える 『週刊読書人』1968(昭和43)年1月8日号(1/1日合併)1~3面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人アーカイブス
更新日:2019年2月15日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第707号)

開高健×五木寛之 
“白夜の季節”の思想と行動 ――日本の「内」と「外」から現代の状況を考える
『週刊読書人』1968(昭和43)年1月8日号(1/1日合併)1~3面掲載

このエントリーをはてなブックマークに追加
1968(昭和43年)新年号
週刊読書人1月8日(1/1合併)
ベトナム戦争が激化の一途をたどる1968年の最初の号で収録された人気作家同士による対談を転載。従軍記者としてベトナムから帰国した開高健が語る現地の光景、当時若手作家として売出し中の五木寛之による文学論など多岐にわたって語られたロング対談! (2019年編集部)
第1回
敵と味方が入り組んでわからぬことが多い時代

五木 寛之氏
編集部 
 五木さんは、どこかで現代の日本は「白夜の季節」じゃないかとおっしゃっておられましたが、それはどういうことなのか、そのあたりからお話を始めていただきたいと思います。
五木 
 今度の米兵脱走事件の問題とか、ベトナムに関しても、開高さんや小田さんはたいへん立場がはっきりしていらっしゃる。ぼくは「白夜の季節」云々といいましたけれども、非常にわからないことが多い。いろんな質問をポンとぶっつけられても、口ごもっちゃうことがたくさんありましてね。かつて「太陽の季節」というのがあったが、「太陽の季節」というのは、影も主体も風景もクッキリと見えてて、誰が敵で誰が味方か、どちらが西で、いま何時かということまで大体想像がついた時代だったような気がします。ところが、いまは夜でもないし、昼でもないという感じがする。影があるのかないのかはっきりしない。あれが木なのか建物なのか、敵と味方が微妙な形に入り組んでからみ合っている。そういう時間がずっと続いていく……。

例えば去年からエンターティンメントの中でスペイン戦争を取りあげて書いてるんですが、あれは調べれば調べるほどわからない。特に武器とか、経済的な援助とかそういうからくりになってくると、これまた奇々怪々でぼうぜんとしてしまう位だ。「明治百年」とか「ソ連革命五十年」だけでなく、「スペインの内戦三十年」「フィンランド独立五十年」といったあたりを見てきますと、小国をめぐっての大きな代理戦争みたいなものの奇怪さというものが身にしみてわかってくるわけです。そうなった場合に、ぼくらがはっきりした発言をするためには、まず知らなきゃいけない、という気がする。中国の文化革命にしても、ベトナム戦争にしても、日本のいろいろな状況についても、われわれがそれを深く突っ込んで知るためには限界があるんじゃないか。たとえば、ぼくは、中国の文化革命については、ほとんどゴシップ的なニュースしか知らない。だからぼくは最近盛んに”役割”ということをいうんですが、自分でこれという一つの方向をきめようと思う。あれについてもパッと発言できる、これについてもポンと即答できるというわけにはいかない。そこで、このあいまいな世界の中で、全てに総花的な明快さを求めず、わかる事だけをいくつか選んでやっていこうと考えるのですが、どうでしょうか。
開高 
 おっしゃること、ぼくはよくわかるんです。わかるように思い込む面もあると困っちゃうんですが……。
ベトナムにぼくがいるときの気持ちは、いろいろゆれたんですよ。あのころはしょっちゅクーデターがあり、デモがあり、焼身自殺があり、公開銃殺がありして、一般にはコロンブスが初めて大陸を発見したみたいな状態で、ベトナムという国そのものが知られていなかった。だからガイドブック式というと悪いんですけど、まずどういう国かということを報道する義務をぼくは感じたので、その面にとどめてしまった趣がある。それが不満で、いま小説書いてるんですけどね。基本的にいって、ぼくはやっぱり旅行者だったと思うんですよ。旅行者というのは、日本人でなしベトナム人でなし、空と地の間をさまよっている。おそらく心の中は白夜でしょうね。

あの国で人が人を殺すということは、実に精密をきわめていて、しかも混沌としている状況でしょう。それでだれかの味方をするということは、だれかを殺さねばならぬという覚悟をきめてからでなきゃいけないわけですよ。正直いって、ぼくは直接間接にでも人を殺す覚悟ができなかった。ハラがなかった。ぼくにできることといえば、見ることしかないんだけれども、とことんのところまでいって、見るということしかないと思った。ぼくの立場は、朝日の特派員ということになっていたけれども、自分ではハイエナだと思っていたんですよ。(笑)
五木 
 それはどういう意味ですか。
開高 
 つまり、アフリカの原野を、ただ逃げるよりほかないようなやわらかい肉をしたカモシカの群がダダダーッと走っていくでしょう。そのあとライオンがダダダーッと追っかけていく。空からハゲタカが襲ってくる。一番最後に、うなだれてボソボソしているくせにしつっこくどこまでもついてくるやつがいる。これがハイエナだ。ハイエナもアフリカの原野を掃除する実際的な役割を果たしているらしいんですけども、ぼくは、ただ見るだけだ。牙なきハイエナだったな。それしかほかに考えられなかった。それを左翼の人がどう理解しようが、ぼくの知ったこっちゃないという感じだったね。
五木 
 そういう感じはぼくにもあります。誰かに解ってもらおうとはあえて期待しないわけだ。
開高 
 それから最前線に出てゆく、作戦にいよいよ出る、もう殺されることははっきりわかっているというときは、心千々に乱れたんですが、そのときの一番大きな印象は、ベトコンさんのための戦争だとか、アメリカさんのための戦争だとか、そういうふうに感じている間は、他人の戦争だという感じで、どんな理由でもいい、自分のための戦争だという戦(感)じ、それがなければ踏み切れない。

つまり、サイゴンで寝たり起きたり、カワイコちゃんをだいたりしているような生活からただ抜け出したい一心でベトナム戦争を見に出かける、それでもいい。あるいはもっとりっぱな、何も知らないで眠り込んでいる後方の人をめざめさすためにおれは出てゆくんだとか、また何とも説明できないけどどうしても自分自身から逃げ出せなくて巻きこまれてゆくとか。何だっていいんですが、とにかく自分の戦争だ、というふうにどこかでひっかからなければ、出られない。
五木 
 それは戦争に限らず、何をやっても、自分の問題として実感としてつながってないとだめだと思いますね。開高さんはベトナムでは生死の境みたいなところをくぐってこられたわけで、そういうことっていうのは、やはり開高さん自身の中でヘソの緒がつながっているような感じがあると思いますね。
2 3 4 5 6 7 8 9
このエントリーをはてなブックマークに追加
五木 寛之 氏の関連記事
開高 健 氏の関連記事
読書人アーカイブスのその他の記事
読書人アーカイブスをもっと見る >
学問・人文 > 文学関連記事
文学の関連記事をもっと見る >