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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年7月1日 / 新聞掲載日:2016年7月1日(第3146号)

書評
しっかり死ぬための哲学 死について確実に語りうることを、わかりやすく説き明かす


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「父親は九十歳まで生きていたので、自分も九十歳まで生きるだろう」
かつてそう予言していた哲学者がいた。たしかな根拠はなかったものの、自信に満ちたそのことばを聞いて、妙に納得するところがあった。
哲学者でなくても、人間にとって「死」はつねに気になるものだ。しかし、だれにも経験としては語れないこの問題を、本書では、哲学者として、生命倫理学者として、いまなお現役で活躍しつづける著者が、古今東西の知見を集約して、わかりやすいことばで説き明かしてくれる。
死について、文理融合、東西融合、古今融合という三融合をめざす本書は、まずは、最先端から見た死の自然科学を集約して、哲学・法律・宗教の知恵と比べていく。つぎに、西洋の文化史だけでなく、インド・中国・日本の伝統思想にも知恵を求め、そして古今融合へと向かう。生命と死の進化論から始まる本書は、死について確実に語りうることを、いまの時点で集約して、生命倫理学へと結実する。
生命倫理学はかねてより、「パターナリズムから自己決定へ」というスローガンを掲げてきた。患者の自己決定を尊重するこの考えは、患者が六十代で死亡する場合には正しかった。だが、人が九十歳代で死亡するこれからの時代には、「自己決定からパターナリズムへ」と方向転換しなければならない。自分で決めることが困難になれば、たとえ見繕いであっても、周りの人が当人にとっての最善を追求しなくてはならない。これが著者の考えだ。
高齢になれば、だれもが自分の死に方を考えるだろう。著者の指摘を待つまでもなく、「他人に迷惑をかけずに、静かに死にたい」というのが一般的なところだ。死ぬときまで他人に遠慮する必要はないという考えもあろうが、しかし、生き残る人への思いやりも忘れないようにしたい。これももっともな考えだが、最期を看取って死につかせてくれる人がいないと、死ぬことも許されず、いつまでも生理的な循環だけが維持されることになる。しっかり死ぬためには、いまでは、他人の協力が不可欠なのだ。
ここで、死を迎える心構えについて、実例を挙げて考えてみよう。たとえば、著者は、自分が重い認知症ではないならば、胃瘻をつけることも承諾したいという。でも、認知症が進んでいったら、そのときには、胃瘻をはずして死なせてほしいと付け加える。
なるほど、人間は自分のことを自分で決めたいし、その権利もある。しかし、老いて認知症が進んだとき、当人の判断を意思とみなしてよいのだろうか。意思があるとは、少なくとも、自分の判断をことばで相手に伝え、相手の行動を確かめることのできる状態だろう。では、意思の疎通ができなくなったら、つまり、コミュニケーションがとれなくなったら、どうするのか。
最後は、相手を信頼できるかどうかにかかっている。
そこで、著者はひとつの試みとして、人生を数値で表すことのできる「計算機」を作ってみる。たとえば、自分の寿命をきくと、両親の死亡年齢の平均に五%を上乗せして、「九十二歳で亡くなります」という答えが返ってくる。いつまで文章を書いていられるかときくと、脳のMRI画像を見て、「八十一歳で日常生活に支障はないが、学術的評価に耐える文章を作成することは困難になる」という結果が出てくる。
著者は、「もの書き」の仕事ができなくなったら「絵描き」になりたいとも語るが、文章にも、絵画にも、あらゆる場面で飛び抜けた才能を示していた、あの天才的な哲学者はいつ、どのような最期を迎えるのだろうか。
できることなら、死ぬときまでに決めておくべきことを調べ上げ、死ぬことへの準備に抜け落ちがないようにしたい。老若男女を問わず、人の死について少しでも考えてみたことのある人に、本書をお勧めする。
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