司馬遼太郎×尾崎秀樹  現代と維新のエネルギー 『週刊読書人』1967(昭和42)年1月9日号(1/2合併) 2~3面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年2月15日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第657号)

司馬遼太郎×尾崎秀樹 
現代と維新のエネルギー
『週刊読書人』1967(昭和42)年1月9日号(1/2合併) 2~3面掲載

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第2回
思想と美意識の相克 興味のある人間の所属の問題

尾崎 秀樹氏
尾崎 
 今度毎日新聞に『峠』を書かれるについて、主人公の河井継之助の、どこに一番ひかれましたか。
司馬 
 当時の進歩的な読書階級というものは、もう幕藩体制なんてものは否定しておりましたね。河井継之助なんかでも、否定しておりました。彼は晩年、死ぬ前に、「このいくさに、勝っても負けても侍はなくなる。侍階級はなくなる、町民の世の中になる」と予言するんです。これは西郷隆盛でも予言できなかった。革命者の西郷隆盛でさえも、これまでは進んでいない。しかし、ここらへんが河井継之助のディレンマであり、どう克服するかが人間のテストになるとぼくは思うんです。河井継之助が所属しているのが徳川の譜代大名。その家老でしょう。そうすると今度は、武士の意地という、どちらかというと革命よりも大事な、人間の美意識というものを、武士の意地とか、節度とかこれは本当を言えば、革命よりも大事な問題かもしれないですね。で、どっちを取るか。河井継之助の世界観で言えば、薩長の言うとおりになって、ざあっと日本中をローラーにかけられてしまってもいい、と言うでしょうな、きっと。

彼の思想から言えば、そこまで言うでしょうね。彼は勤王派じゃありません、統一国家主義者ですから言うでしょうけれども言わないんです。言わなくて、そういう京都中心の統一国家派の大波を長岡の地で一身に受ける。越後の国で一身に受けてしまうという時に形としちゃ、降服するか、しないかという、非常に素朴な人間の美意識の問題にかかって来ますね。思想はどうであれ、人間の美の問題にかかってくる。そこで彼は美を取ったわけです。だから、そこに、ぼくは彼ほどの思想人が美をとったということについて、ものすごく血涙を流していると思うんですよ。その問題ですね、書きたいと思うのは。だれでも一生に数度遭遇する問題ですよ。
尾崎 
 竜馬の場合は、全然違ってくると思うんです。彼の場合は、七つの海を制覇するほどの、大きな構想の持主だし、あるいは藩意識、国家意識を乗り越えて、船中八策に見られるような、ユートピア構想みたいなのを一本、持っているわけでしょう。ああいう生き方、これは、あの「竜馬がゆく」の中で具体的に一個の人間像として描かれたわけですけど、西郷なんかとタイプはまるっきり違いますね。
司馬 
 ぼくの非常に興味のあるのは、人間の所属の問題です。人間というのは、どこかに所属して安定している。どこかに所属して安心な生き物なんですね。われわれの今日の社会でもそうですね。

三菱会社におるから、なんとなく安心で、嫁さんもくる。嫁もくれるということで、そしてまた、おちついて酒も飲める。どこかに所属している、バックが大きければ大きいだけ強力であればあるだけ、その人間は安心していられる。意識するとしないとにかかわらず、属しているという感じがあるということはいいことなんですねえ……。

作家だって文芸家協会に属していますよ。それを確かめるためにさらに銀座のバーに行って仲間の顔を見る、それから仲間のうわさを聞くということで非常に安堵することがありますね。ところが、竜馬はどこにも属さない人間なんです。彼は、非常に下賤の、つまり、藩士であるかないかさだかでない郷土の出身ですね。属そうにも藩意識を持とうにも、向うの方がはねつけるような階級の問題がありましたね。だから、どうしたって彼は、汎日本的にというか汎日本的にならざるを得なくなるだから、彼の飛躍というのは最初からそういう素地があったわけです。

それがまずおもしろかった。それから、彼が薩長と手を握らせながらも、薩長が解消したあとの世界を考えていますね。つまり、汎日本的な世界を考える。汎日本的な世界を考えるイメージのその向うにはもう地球しかないわけでこれは彼の階級から来るもんですね。同時に彼は、懸命にどこにも所属すまいとしていますね。自由な精神と理由がなければ大仕事ができないと思ったんでしょうな。所属していれば西郷のように薩摩藩という背景のもとで、ああいうダイナミックな仕事はできるけれども、しかしながら、薩摩藩のワク内は越えない。だからおれはもっとブローカーのような、つまり自由な立場でやりたいという感じはありましたでしょうけれども、そのかわり、悲しかったでしょうなあ。属していないということはどれだけ悲しくて、どれだけ寂しくて、どれだけ心もとないということを、われわれ今日でさえわかるんです、孤独というものは。そういうことに非常に興味と愛情を感じましたですね。
尾崎 
 一匹狼の強さと哀しみみたいなものをあの長篇の中に再現されているという感じがしますね。「竜馬がゆく」という、タイトルのあの「ゆく」の二字に託された作者の思い――。ああいった人間が生き抜いてゆくことの意味を、あのタイトルにまさに象徴的に語っていると思ったんですがねえ。

で、また、タイトルのことをいえば、司馬さんの作品のタイトルのつけ方というものは非常に現代人にぴったりするものがあると思うんです。『国盗り物語』というようなタイトルも、これは戦前につけることができないようなタイトルですね。それが、いまはつけられて、一般の大衆もちっとも抵抗を感じないで読む……。
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