大河内一男×桑原武夫×臼井吉見×木下順二 『週刊読書人』1965(昭和40)年1月1日号 昭和時代40年の断面 激動する歴史の流れを顧みる 第1回戦前篇 暗い谷間の二十年|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年2月15日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第557号)

大河内一男×桑原武夫×臼井吉見×木下順二 『週刊読書人』1965(昭和40)年1月1日号
昭和時代40年の断面 激動する歴史の流れを顧みる
第1回戦前篇 暗い谷間の二十年

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1965(昭和40年)新年号
2-3面
戦後20年を迎えた年の新年号で大河内一男、桑原武夫、臼井吉見、木下順二といった知識人が語る戦前の風景とは。学生運動、2・26事件、満州事変、思想統制、太平洋戦争、終戦と戦前の6つの重要なトピックにフォーカスを当てて各人が目撃した時代の節目を語り合う連続特集の第一回目。(2019年編集部)
第1回
理論闘争よりも乱闘 “抵抗素”がないと左翼に

学生運動

臼井 
 桑原さんは大学時代はどうだったんですか、学内の左翼的な運動とか。
桑原 
 全然ノータッチです。中学校のときにそういうものが好き、だったわけですね。そして読んだのは、堺枯川とか、大杉栄とか、河上先生の「貧乏物語」、そんな程度のことで、そして私が三高に入って一年生のときに社会問題研究会というのができましてね、その最初のテキストはアダム・スミスの「国富論」ですよ。東京あたりから連絡があったのか、一年たったら、とたんにマルクスに変っちゃったですけれどもね。そのころから、ぼくらが愛読していた堺とか大杉とか、そんなものはつまらぬ、古臭いということになってきた。それで、こちらは腹が立ってね。そういうものをバカにするのはけしからん、つきあいたくないという気分でした。そのとき左にいった諸君のほうが、率直に言えば無教養だった。
臼井 
 そうすると、昭和三年四年の三・一五とか四・一六という共産党の大検挙ですね、あの事件なんかについては。
桑原 
 それは中学校の同級だったのがやられたりしたから、反対でしたけれどもね、そのような思想弾圧ということには。しかし、困ったなと思っていたけれども、何にもしなかったね。援護射撃もしなかったですね。同情はもっていたけれども。久野収さんと鶴見俊輔さんの書いた『現代日本の思想』に、日本共産党は当代のインテリにとって輝ける北極星であったと書いてあるけれども、ぼくらちょと時代が早すぎて、共産党を極北の星と思ったことは一度もない。ですから、ちょっと食違うんです。
臼井 
 そのへんのところ、どうですか、木下さんは。
木下 
 ぼくは小学校の途中で九州へ行ってしまいましてね。九州熊本になるとずいぶん僻遠の地で、そういう問題がそう直接ひびかなったですね、ぼくには。ぼくの高等学校に入った前の年に五高でストライキさわぎがあったけれども、それぐらいが最後で、つまりぼく流にいうと進歩的な運動の退潮期、それからファッショの台頭期の間の小春日和みたいなところが高等学校の時代だった。だから、ぼくたちの友だちでも、いわゆる左翼というのはほとんどいなくて、ぼくたちの一年のときに、三年生で左翼だったのが退校させられたことがあった程度で、従って関心をもつチャンスがあまりなかったですね。いまから考えて、ある意味でちょっと残念な気もするんですけれども。
臼井 
 ぼくなんかは、高等学校、松本なんですけれども、高等学校にようやく社会科学研究会というものができましてね。しかし、ぼくは関心をもたなかったな。加わっている連中にも、動きにも。ところが、大学に来てびっくりしちゃったね。少なくとも文学をやろうとか何とかいうものは、どういう意味でも巻込まれざるをえないような情勢だったんだな、東大の中は。毎日のようにビラは撒かれるし。そして、あの時分に左翼のことをやっている連中は、晴天でもゴム長はいていたんですよ、それが左翼風俗の一つだったんだね。そういう時代でしたからこっちに左翼に対する抵抗素がなければもっていかれてしまった。
木下 
 ぼくのときは、大学は一九三六年から三九年ですけれども、表立ったそういう運動というのは、非常に少なくなっていましたね。卒業のときが、河合栄治郎の事件で、あれなんかが、ぼくの大学のときの、直接、署名運動だ何だということをやった、ほとんど唯一のことです。
桑原 
 私は大正十一年に三高に入ったが、すぐ校長排斥のストライキをやりました。大成功で、生徒側の処分がなくて、校長だけ入れかえになった。その次のストライキから、左翼的になるわけですが、このときは、全然思想的ではないわけですね。荒畑寒村が講演に来ましたね。大宅壮一さんが引っぱってきたわけですよ。寒村が壇の上で感激してね、私はこんな三百人か四百人かの前で講演するのは十何年ぶりだ、感激にたえん、といって演説したのが、私の高等学校の一年生か二年生ですね。そんな状況ですよ。大学を出て三高の講師になったのが昭和五年ですが、これはきついときで、ストで赤旗を立てて学校占領をやりましたね。
臼井 
 大河内さん。学内におられて、ずいぶん長い時期にわたるんですけれども、その時期々々の学生運動というものを、どう見てこられましたか。
大河内 
 ぼくも、あまり記憶が正確でないんですが、昭和初期私が学生から、卒業して助手を何年間かやっていた。そのころですと、いまのような自由な学生運動のようなものはなかった。その当時、ふつう知られていた学生とOBとの混成部隊みたいな運動は学内にも学外にも、両方にまたがっていたようですが、一つは左派で、一つは右派というんですか。左のほうは新人会、それも末期の新人会。よく集会がありましたね。いま社会党の佐多忠隆君などが議長をやっていたりなどして、これは主として書斎派なんていわれて、おもに研究、討論、啓蒙というような分野の運動で、だいたい学生、あるいは若い教師たちを中心とした活動でした。その周辺に学生がついていったわけです。

もう一つのほうは、七生社というんですが、上杉慎吉さんなどが顧問だったのでしょう。実際は穂積七郎君(現社会党)や、その兄さんの五一さんなどが、第一線に立っていたようでした。穂積兄弟が、だいたい中心だったのでしょう。そしてその周辺に、右派系の学生たちが取りまいていた。これが、いろんな細かなことにまで双方対立しましたね。ちょうど当時、東大の中は関東震災(大正十二年)で建物の大半がやられて、まだ復興建築ができない前の時期ですから、あっちこっちにバラックの教室があったり、震災でくずれたレンガの山があったり、そういうゴタゴタした中で、両方のグループが対抗する。理論闘争というより、もうちょっと野ばんなんですよ。文字どおり、乱闘をやる。片方がレンガを投げる、片方は十手なんか持ち出して相対峙する、といった調子だったのを覚えています。どうして十手などを右派が持ち出したのか、よくわかりませんがね。そんなことで、この対立が学生たちの興味の中心でした。それぞれどっちかへつく。もちろん新人会ファンのほうが多かったわけですけれどもね。そのうち七生社のほうも、新人会のほうも後退してしまう。けっきょく満州事変が昭和七年、八年ごろにかけて、血盟団が出たり、ああいう右翼団体のテロがひん発する。そういうころになりますと、もう大学内の学生団体の思想的対立などという、なまぬるいものではなくなってしまう。
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