近代東アジア への視角  汪暉氏との対話 磯前 順一 ポストコロニアル第三世代の任務――新しい主体性の形成に向けて一|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年2月18日 / 新聞掲載日:2019年2月15日(第3277号)

近代東アジア への視角  汪暉氏との対話 磯前 順一
ポストコロニアル第三世代の任務――新しい主体性の形成に向けて一

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第2回
磯前順一報告 新しい主体化のかたち

筆者㊧と汪氏(神戸・東遊園地)


「ポストコロニアリズム」は大都市の住むポストコロニアル知識人の自己正当化の物語に堕落してしまったと、かつて私に語ったのはガヤトリ・スピヴァクであった。その批判を踏まえて、スピヴァクはグラムシらの西欧マルクス主義を軸として構造論を踏まえた主体との往還関係へ議論を展開すべきだと主張した。それが、いささか明瞭さを欠いた「批判的地域主義」論であった。だが、汪氏に至って、いよいよそれが主体と構造の往還関係という具体的なかたちで叙述が展開されたのである。

ポストコロニアル研究は三つの世代に分けて考えることができる。第一世代は今、八十歳台のラナジット・グハたち。彼らは国家に抵抗する人民を本質主義的に打ち出した。第二世代は七十歳台の酒井直樹やスピヴァク。かれらは本質主義批判であった。そして第三世代は自分たち、五十代後半だ、と。空洞だが、存在する主体が歴史的文脈の中で接合されていく主体化の議論を、社会構造論を踏まえて行う。それは、もはやポストコロニアル研究と呼ばず、新たな主体化論と呼ばれるべきものかもしれない。それは個人の主体やアイデンティティだけを指すものではない。むしろ新たな共同性を志向するものである。異種混淆的な「私たち(us)」とでも呼ぶべきものであろう。

その場はつねに他者の参入へと開かれており、個人の主体の境界線を越え出るものとして、「超越(trans-cendence)」あるいは「翻訳(trans-lation)」という機能が作動している。〝trans-〟とは〝inter-〟とは区別されるものである。〝inter-〟が「学際」や「国際」、といった個々の単位を自明の存在とした上で、その交流を推奨するものであるとしたならば、〝trans-〟とは個々の単位を前提としつつも、その境界線を脱臼させていき、個々の主体の再編をよぎなくする作業だからである。そうした参入行為こそが政治であり、異種混淆的な共同性なのだ。まさに私たちが神戸や芦原橋で見た、相互参与的な(interaction)共同性だ。」と汪氏は言った。

相互参与的な人間関係を軸とする点からみれば、「スピヴァクがグラムシの言葉を借りて述べた、サバルタンを知識人が代理表象できるか否かという問題設定自体が、今では適応しないものである。」と言う指摘は重要である。知識人の統合力が落ちている現在では、表象力を前提とした議論ではなく、表象とは異なる「分節化」のあり方が模索されるべきだという。私の報告が被災地の人びとの造型物やモニュメント建立を扱ったものであるがゆえに、言語的な代理表象ではなく、代理表象を必要としない分節化行為が新たな主体化を作る契機になると考えているという。

他者への開かれとして、個々の主体を超え出る「超越」機能。他人だけではない、自己もまた乗り越えられるものとなる。なぜならば、自己もまた自分にとって謎めいた他者にほかならないからである。その超越機能によって、異種混淆的な、新たな主体性が表象作用を伴わず形成される。「そこに希望がある」と、汪氏は言った。同意である。 (了)
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