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更新日:2019年2月19日 / 新聞掲載日:2019年2月15日(第3277号)

科学の革命家アインシュタイン博士の面影

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故国ドイツを発し我国訪問の途上に就いた科学界の革命児アインシュタイン博士は十一月十七日北野丸にて神戸入港、同夜京都に宿泊し、十八日上京十九日慶大に於ける通俗講演会に出席、石原純博士の通訳で深遠なる相対性原理を、極めて通俗的に約五時間に亘って諄々と説明した。(『写真通信』大正十二年正月号)
 アインシュタインがやって来た。

大正十一(一九二二)年十一月十七日、科学の巨人は夫人とともに神戸港に到着した。

相対性理論によって、すでに世界的な名声を得ていたアインシュタイン(一八七九~一九五五)が日本に向かう船上に、前年から保留とされていたノーベル賞受賞の報せが届いた。受賞に反対する学者たちを配慮してか、受賞理由は「光電効果」とされたが、そのことで彼の評価が変わるわけもなく、むしろ人気が高まり、東京駅には「アインシュタイン」と叫ぶ群衆が殺到する熱狂的な歓迎を受けた。

『歴史写真』(大正十二年正月号)では、二ページにわたってアインシュタイン特集を掲載している。このページには四枚の写真が掲載された。上の二枚は赤坂御苑の観菊御宴に出席する夫妻。写真説明によれば、博士のズボンはつぎが当たっていたので、急遽借りてきた礼服を着用したとあって、無頓着な科学者の一面が記録されている。これは現在の天皇皇后が主催する秋の園遊会だが、このとき大正天皇は精神を病んでいるとされて療養中、貞明皇后が謁見して博士を感激させた。左上は東京小石川の植物園で開催された帝国学士院主催の歓迎会に出席したとき。下右は東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純博士が、講演の通訳を務めている。下左は招待した改造社山本實彦社長邸の庭ですき焼きを食べる博士だが、箸を器用に使う様子が写っている。いずれも日本側の手厚いもてなしぶりが伝わる写真だった。

もう一ページは、相対性理論の解説。慶応義塾大学での六時間に及ぶ相対性理論の講演会の聴衆は二千人、女性の参加者もいた。各地での講演は計八回、一万四千名の聴衆を集めたという。日本人の知的好奇心の高さを物語るものだろうか。科学文化への関心が強まっていたことも、大正デモクラシーの一端といえるだろう。

日本と日本人への称賛を抱いて、四十日余りの滞在を終えたアインシュタインは、明治維新によって西欧化を急いで実現させた日本が、それまで持っていた特性との矛盾について、次のように警告している。
「たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです」(『アインシュタイン日本で相対論を語る』アルバート・アインシュタイン著、杉元賢治訳、講談社)

彼が暮らしていたドイツは、このとき第一次大戦に敗れて多数の死者を出した上に、莫大な賠償に苦しんでいた。ヨーロッパは勝っても負けても大戦の大きな傷跡に苦しんでいる時期だった。

荒れ果てた国土からやってきた日本は、自然にあふれ、おだやかなたたづまいに満ちていた。アインシュタインが感動した背景には、戦火の残酷な結末があったのだった。

しかし、アインシュタインの訪日から十か月後に、日本は関東大震災に襲われて首都圏は壊滅し、続く昭和はアインシュタインの願いとは逆に、戦争への道を突き進んでいく。

アインシュタインもまた、ナチス政権が誕生したドイツから逃れてアメリカに亡命した。(いわお・みつよ=ジャーナリスト)
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