山椒魚の忍耐―井伏鱒二の文学 書評|勝又 浩(水声社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年2月16日 / 新聞掲載日:2019年2月15日(第3277号)

山椒魚の忍耐―井伏鱒二の文学 書評
あくなき文体追求のさまを
潔さと素直さ、井伏鱒二の文学者としての佇まい

山椒魚の忍耐―井伏鱒二の文学
著 者:勝又 浩
出版社:水声社
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井伏鱒二の作品を読んでいない人でも、『山椒魚』のことを知っている人は多いだろう。わたしも著書の勝又浩氏と同じように教材作品としてはじめて読んだ。当時はこどもだったので変な小説だと思ったが、その後、彼のことを深く知ったのは、わたしの老母と関係がある。彼女は戦争中に広島にいて、原爆が投下される一日前までそこにいた。たまたま帰省し難を逃れたが、親友だった女性は被爆し亡くなった。彼女はプロテスタントの信者で、どうしてキリスト教の国がこんなことをするのかと、力のない目に涙をためて言ったらしい。まもなく九十七歳になる老母は、その声が未だに耳にこびりついているようだ。爆心地に近く、一人助かった彼女は、なにがあっても生きているだけで幸福だと言う。

そのことを夏になると何度も聞く。というのも八月六日は父の命日でもあり、母もわたしも原爆や敗戦のことを、どうしても意識させられる。そういったこともあり、少年時代に『黒い雨』を読んだが、この『山椒魚の忍耐』も個人的に前記のようなことがあったので、興味深く読んだ。むしろテーマの重い『黒い雨』は、井伏作品の中では異質だという思いがある。勝又氏も書くように「『黒い雨』は「原爆によるたくさんの犠牲者から取材し、その上に成り立っている小説だ。言い換えれば、罪なくして地獄を見、体験してしまった人々の不幸の上に出来上がった小説」であると書いている。また「戦争のために旗を振らなかった井伏鱒二は、平和のためにも旗を振らない人だった」が、多くの取材をして書いたこの作品は、やはり井伏作品の中では特異だ。広島出身ということもあり、それだけ書かずにはいられなかったのだろうが、この作品の根底には彼の静かな怒りがある。

本書は「山椒魚の忍耐」をはじめ「川と街の考現学」「理想郷としての主従」など、井伏の佳品を十一章に分けて論考を試みている。いずれも新しい発見と読み応えがある。個人的には、日本の文学史上、この作家ほど自由に作品を書いた人はいないという感慨を抱いているが、そのことを改めて知らされた評論だった。そして井伏の自作への拘りも最も強い人だと改めて知らされる。

たとえば著者は『山椒魚』の幾多の手直しと二度の結末削除の背景には、悲惨な戦争への「絶望」があったと指摘し、『山椒魚』の前身である『幽閉』はチェーホフの『賭』に触発されて書いたことなど深く調べられている。それは「川を小説に書こう思った」と言って、川沿いで生活している住人の話よりも、川を中心に書いたりしてさまざまなことを試みている。そのことは秋山駿の「新しい文体を創造するという野望」をもっていたということになるかもしれないが、井伏が文体を模索し続けていたからこそ、記号から句読点まで、人も呆れるほど改稿を繰り返していたということになってくる。

そう思うとここに取り上げられている『山椒魚』『さざなみ軍記』『かるさん屋敷』『へんろう宿』『青ヶ島大概記』など長編・短編、歴史小説、日記調のもの、悲惨な戦争ものなど書いたものは多岐にわたるが、それはあくなき文体の追求と考えられなくもない。また勝又氏は子弟関係にあった太宰治との確執も取り上げているが、その対応に対しての井伏の生き方には潔さと素直さがあり、わたしはそこに彼の文学者としての佇まいを見る。太宰は井伏の『青島大概記』を『八丈実記』からの「盗用」として詰め寄るが、その彼の「代表作の一つである『女生徒』も、モデルの少女から提供された日記をほとんどそのままに書き写した作品」だと指摘する。攻撃する太宰と批判を甘んじて受ける井伏とは、生きる姿勢も文学者としての資質も違う。

本書は半世紀の歳月を費やし、井伏の著書や膨大な研究者の資料を読み込んだ手間隙かけた作家・作品論であるが、文芸評論は文学の知識や見識がなければ、深みのあるものは書けないのでないかと思案させられた。それほど濃厚で味わいのある好著だった。
この記事の中でご紹介した本
山椒魚の忍耐―井伏鱒二の文学/水声社
山椒魚の忍耐―井伏鱒二の文学
著 者:勝又 浩
出版社:水声社
以下のオンライン書店でご購入できます
「山椒魚の忍耐―井伏鱒二の文学」出版社のホームページはこちら
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