吉田修一論 現代小説の風土と訛り 書評|酒井 信(左右社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年2月16日 / 新聞掲載日:2019年2月15日(第3277号)

吉田修一論 現代小説の風土と訛り 書評
反時代的な文芸批評
きわめて本質的な文学の「場所」へ

吉田修一論 現代小説の風土と訛り
著 者:酒井 信
出版社:左右社
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 ややローカルな話から始めることをお許し願いたい。長崎では昔、高校入試の際に「総合選抜」という方式を採っていた。たとえば長崎市内には五つの普通高校があるが、市内の中学生たちは全員同じ試験を受けて、ランキングされ、五つの高校に平等に振り分けられる。学校間の学力格差をなくす、という、ある意味で長閑な平等原則に基づいていたやり方だったのだが、吉田修一や本書の著者の酒井信は長崎南高の出身だ(ちなみに、芥川賞作家の青来有一や評者は、長崎西高出身)。完全なる学力均等を目指すとはいえ、高校生が自分の住んでいる地域から遠い高校に通うのは酷なので、結果的にだいたい近くの高校に入ることになるのだけれど、学力は均等なわりに、高校のキャラはかなり違う。ここが興味深い。南高は、観光地の長崎のイメージを内包している。グラバー邸や大浦天主堂、オランダ坂。長崎随一の歓楽街を抱える。観光客で賑わう地域を抜け、小さな民家が急な坂道にひしめく住宅街(「小島」という地名)に入ると、吉田や著者の家がある。吉田修一の実家はいまも続く酒屋さんだ。著者はそうした地域性から書き起こす。

考えてみれば、ほぼ同じ地域で育ち、ほとんど同じ教育を受け、数年の前後はあるものの東京の私立大学に進学してきたという自伝的経緯を出発点にした文芸評論など、いまはまず読むことができないのではないか。理由は簡単だろう。ほかの誰よりもよくわかるという長所がある反面、あまりに近いためテキスト読解に性急さや歪みが紛れ込むのではないか、と。

長所から書こう。たとえば吉田修一の複数の小説にあらわれる独特の不良文化について、酒井は、長崎の中学生・高校生の半分ぐれた感じが社会問題になった時期に吉田が思春期を迎えていた事実を重ね合わせる。そのうえで、「ヤンキー文化×ブルーカラーのネイティブ文化=エキゾチックなヤンキー文化」という見事な等式を導き出すのだ。半端なヤクザ者だけれど、どこか憎めない労働者が、たしかに吉田の小説には多く描かれるが、その背景を長崎の教育風土から説明した文章は、見たことがない。

反面、やや性急だと思える点もなくはない。たとえば『悪人』の主人公・祐一がどんなに追い詰められた状況でも決して自殺を考えないことの理由として、カトリック信仰を酒井は挙げている。長崎の自殺率の低さや酒井自身の経験から、長崎の風土に沁み込んだカトリシズムの影響に言及し、遠藤周作の『沈黙』を経て、吉田作品における「登場人物が自殺しない」視点へと到る書き方は、剛腕だが、やや性急にすぎる。

酒井のこの吉田修一論を、私が初出の「文學界」の連載の頃から読んでいた。楽しみにしていた。それはむろん私が長崎出身であることと無関係ではないのだが、いまの文芸批評がなくした、泥臭い場所論が書いてあったからだ。酒井は吉田を論じながら、長崎を論じている。観光地として漂白された長崎ではなく、汗臭い人間の住む場所としての長崎を。それは、酒井が言うように、世界的なレベルで進行する「没場所化」の流れの中で、小さなノイズを作り出すことなのかもしれない。そもそも吉田修一が描き出す人物たちが、場所のしがらみに骨の髄まで絡めとられながらもがいているのではなかったか。とすれば、敢えて言うが、反時代的な文芸批評によって酒井が実現しているのも、吉田修一の小説が向かうところと限りなく似ているのではないだろうか。つまり、流行の小説や批評とは関係のない、きわめて本質的な文学の「場所」へ向かっているのである。
この記事の中でご紹介した本
吉田修一論 現代小説の風土と訛り/左右社
吉田修一論 現代小説の風土と訛り
著 者:酒井 信
出版社:左右社
以下のオンライン書店でご購入できます
「吉田修一論 現代小説の風土と訛り」出版社のホームページはこちら
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