伊藤洋司×吉田広明トークショー 『西部劇論』をめぐって|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年2月24日 / 新聞掲載日:2019年2月22日(第3278号)

伊藤洋司×吉田広明トークショー
『西部劇論』をめぐって

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第2回
『西部劇論』をめぐって(2)

討議のあいまには、それぞれ持ち寄った映像を見せながら、解説する場面もあった。吉田氏は、思い入れのあるウェルマンの『トラック・オブ・ザ・キャット』、伊藤氏はガンファイトを考察するために、『荒野の決闘』(ジョン・フォード)と『復讐の二連銃』(アンドレ・ド・トス)を取り上げた。
伊藤 
 『荒野の決闘』のOK牧場での決闘は素晴らしく、何がいいって、馬車により舞い上がる砂塵と銃声に怯える馬が見事です。ただし、どちらも味方と悪者の間に位置する決闘の障害物です。ガンファイトそのものではなく、その障害物が場面を豊かにしているのです。ガンファイトの本質がよく分かるのは、『荒野の決闘』ではなく、『復讐の二連銃』のような普通の西部劇です。ラストの決闘の描写が極めてミニマルです。そのため、ガンファイトという活劇は、それを構成するアクションの貧しさを本質としていることが分かる。つまり、銃を撃つ一瞬の手の動きと、その直後に相手が倒れる動きです。バッド・ベティカーの『七人の無頼漢』やウェルマンの『廃墟の群盗』の決闘も、省略という技法が使われながらも、演出が、貧しいものでしかないガンファイトを物語として楽しませようとしている点は、『復讐の二連銃』と同じです。『廃墟の群盗』の省略は『駅馬車』の決闘に連なります。決定的に変わるのは、サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』によってです。
吉田 
 最低限の切り返しと倒れる身体の描写の典型的な決闘場面として挙げられた『復讐の二連銃』にしても、片手が封じられ、散弾銃を用いており、ひねりがあるように見えます。『荒野の決闘』では、決闘を阻害する要素をむしろ見せるのだし、古典的西部劇の典型たる『駅馬車』ではそもそも決闘が描かれない。『七人の無頼漢』にしても、あるべきショットを省略することで絶対的な腕前を表象しています。要するに実際の画面としてあるのは、典型を何らかの形でひねったものばかりで、古典的な決闘の典型は、我々の想像のうちにしかない原器のようなものではないかという気がします。それが古典期の西部劇が本当にあるのか、という議論にもつながってくる。
伊藤 
 典型的な日本人も典型的なアメリカ人も、厳密な意味では存在しないというような話ですね。もっとも、典型的な決闘の場面が存在しないからといって、古典的な西部劇が存在しないということにはなりません。それに、私は分かりやすい例を挙げながら、活劇としてのガンファイトの特徴を話したのであって、古典的な決闘や古典的な西部劇について語ったのではないのです。映画における古典期は三〇年代から四〇年代のなかの限られた短い期間に相当し、バザンに従えば、『荒野の決闘』は古典以降の最初の西部劇の一本です。古典的西部劇の特徴を規定するなら、その時期の作品を実際に観て、そこから抽出しなければなりません。ウォーショーのように、古典的なガンマン像を観念的に構成するのでは駄目なのです。
吉田 
 なるほど確かに三〇年代の作品を実際に観れば新たな発見もあるでしょうね。まだまだ西部劇には探求の余地がありそうです。

    *

この他、多くの名作が話題に上り、『モンタナの西』や『復讐のガンマン』等が推奨された。『西部劇論』とともに、改めて西部劇へといざなう貴重な一二〇分のトークであった。

      (おわり)
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この記事の中でご紹介した本
西部劇論 その誕生から終焉まで/作品社
西部劇論 その誕生から終焉まで
著 者:吉田 広明
出版社:作品社
以下のオンライン書店でご購入できます
「西部劇論 その誕生から終焉まで」出版社のホームページはこちら
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