田谷鋭『乳鏡』(1957) 遠き国の雪積む貨車が目 まさき 前を過ぎ瞳吸はるるわれと少年 |書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

現代短歌むしめがね
更新日:2019年2月26日 / 新聞掲載日:2019年2月22日(第3278号)

遠き国の雪積む貨車が目 まさき 前を過ぎ瞳吸はるるわれと少年
田谷鋭『乳鏡』(1957)

このエントリーをはてなブックマークに追加

現代短歌の特徴だと思うのだが、「貨車」、すなわち貨物車が詠まれることが妙に多い。旅客を輸送する客車よりも日常的な親しみは薄いはずなのに、なぜ歌人は貨車を好んで詠むのか。おそらく、単純に音数が2音しかないので詰め込みやすいというきわめてシンプルな理由なのではないかと思う。「電車」や「列車」は3音だけれど「貨車」は2音。1音単位の言葉選びで闘っている歌人にとっては、馬鹿にできない違いなのである。やはり2音である「汽車」も近代短歌にはよく詠まれていたけれど、さすがに現代だと古くささ、田舎くささの方が先立ってしまうのかもしれない。

作者の田谷鋭は国鉄に勤めていた経験を持つ歌人だが、この歌では職員ではなくホームに立つ乗客の立場から詠んでいるようだ。雪の降らない街の駅を、溶けきらないほどの雪をかぶった貨車が通過してゆく。それは、はるか遠くの北の国からやって来たことの証である。「われ」と「少年」が血縁者なのか赤の他人なのかは、ここではあまり問題にならないだろう。この二人の視線が混じり合い、同じ光景に感動する者同士として一体化してゆく感覚にこの歌の眼目がある。

しかしリアルな雪を知っている者としては、貨車を覆ったまま溶けないなんていう頑丈な雪はいまひとつ想像しづらい。雪は降らないまでも相当寒い日の出来事なのかな。ちょっと考証が甘いんだけれど、その部分がこの一首に幻想性を与えているといえるのかも。(やまだ・わたる=歌人)
このエントリーをはてなブックマークに追加
山田 航 氏の関連記事
現代短歌むしめがねのその他の記事
現代短歌むしめがねをもっと見る >
文学 > 日本文学 > 短歌関連記事
短歌の関連記事をもっと見る >