柳田国男(短期集中連載) 経験を訴える“本”を ――柳翁新春清談 上 書物の話 『週刊読書人』1962(昭和37)年 1月1日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月3日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第406号)

柳田国男(短期集中連載)
経験を訴える“本”を ――柳翁新春清談 上 書物の話
『週刊読書人』1962(昭和37)年 1月1日号 1面掲載

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柳田 国男氏
写真は東京・成城町の自宅で
 世の中のことが分かりはじめた五、六歳の頃のことだが、まず第一に驚いたことは、私の家は学者の家でありながら、本というものがまるでなかったということである。

どうしてこんな家に本がないのかと、私は幾度となく両親にも聞いたりしたが、あったものといえば「八犬伝」の二、三冊と、「『蒙求』の和解」という破本ぐらいなものであった。後になって、いろいろと分ってきたのだが、その頃、私の父は長い間わずらっていたので不用なものは全部売ってしまっていたのである。そういう時代を私は非常な不思議な眼で見てきたわけである。今にして思えば、そういうことが反動となって現われてきて、それから少しでも余裕があると、すぐに本を求めるという習慣がついてきたのだと思っている。

十一、二の頃であるが、風呂敷を持って本を借りに行く習慣がついて、何度も行けないものだから、一度に背負って帰ってくる私の姿を見て、何も知らない人たちは、あの子は何をしているのだろうと妙な顔をされたことなどを今は思い出す。

これもその頃の話であるが、元来身体の弱かった私は、ある夜、両親が「あの子は可哀想だ、二十まで生きるかどうか分らないのだから」というような話をしているのを、偶然に次の間で寝ていて聞いてしまったのである。そういうわけではないが、両親も私がせびるとまとめて本を借りてきてくれ、「早く読め、早く読め」と急かされたものであった。

後に、私は世話をしてくれる人があって、内閣の記録課長という職を四年ぐらいやっていたが、その時内閣文庫の仕事もするようになり、私のような本好きの人間には誠に幸福な仕事であった。仕事というのは、集められた書物を分類・整理するのであったが、私は片っぱしから読んでいけばよいのであった。それでも読みたりなくて、家にまで小使に背負わせてきて読んだものである。今でも私が読んで赤いをつけておいた書物がたまに出てくるが、当時の自分を思い出して懐しいことがある。

その頃の乱読は極度のものであって、後になって少しはよい結果も生んではいるが、反面、よく読まないで、およその見当で、あれこれものをいうような、学問をするものにとって一番有害な癖がついてしまったのは困ったものである。

明治二十四・五年の頃、ようやく“文壇”という言葉がいわれるようになって私の兄などもいろいろつき合いがあったので、小説本がかなり家に送られてきていた。読書欲を起すにはふさわしい時であったが、私が一高へ入る前の年で、まだ兄の監督がうるさい時であった。「あいつには小説本を読ますな」という相談をみんなでしていて、家に送ってくる本は全部隠されてしまっていたが、私はそれを見つけ出しては隠れて読みふけったものである。前後を通じて、私ほど乱読をしたものはいないのではないかと思っている。

内閣文庫時代で、一番印象が強く残っているのは、大塩平八郎の蔵書が出てきた時のことである。

皇居の乾門の二階に本がいっぱいあると、ずっと後になって小使が知らせてくれたので早速いってみると、窓のすき間から蝙蝠ばかりが出入りするような薄気味の悪い所に、ぎっしりと本が入っていた。それは犯罪人の刑罰にあったものの書物ばかりで、その中には大塩平八郎の蔵書も沢山あったのである。私はすぐに整理にかかり、内閣文庫にもかなり入れたのであるが、ネズミの糞だらけの門櫓の二階から、そんなものが出てきたのは、刑罰人から没収した書物の処分に困ってそこへまとめて入れておいたのであろう。

私は書物に恵まれていた。だから乱読も出来たのである。現在は一日中書斉に入って本を読むという生活がつづいているが、やはり自分の経験を訴えるような本を読んだ時の印象は強く残るものである。(やなぎだ・くにお氏=民俗学者)
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