柳田国男(短期集中連載) 「雪国の春」紀行など ――柳翁新春清談 中 旅の話 『週刊読書人』1962(昭和37)年 1月8日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月10日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第407号)

柳田国男(短期集中連載)
「雪国の春」紀行など ――柳翁新春清談 中 旅の話
『週刊読書人』1962(昭和37)年 1月8日号 1面掲載

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三派鼎立の構造

岩崎 
 レトリック論というものが、日本の思想史の中で必ずしも十分に位置づけられてこなかったんですが、『メタヒストリー』ショックによって、あらためてそこに光を当てられればいいと思うんです。しかも、たんに文彩技術としてのレトリックではなく、私たちの言語的な能力の基底に存在する、深層において重要な作用を及ぼすものとしてのレトリック構造です。これを現実的な実践的問題として考えたいし、政治的な判断力につながる問題でもある。『メタヒストリー』の効用のひとつとして、その問いがそのうちに開けてくるかもしれません。
成田 
 レトリックがリアリティを作りだすとすれば、実証主義もマルクス主義もその観点から、リアリティの説明―創出の型として相対化されてしまいます。「真理」の探究を掲げる歴史家は反発するわけですね(笑)。この点からも、ホワイトの歴史叙述への着目は光ります。

歴史の方法といったとき、歴史叙述に着目したひとりは、民衆史家の色川大吉さんです。『歴史の方法』(一九七七年)で歴史叙述論に焦点を当て、さらに文体論へとも踏み出し勘のよさを示しますが、分析は自分の実践についてです。自らがどういう史料を集め、どのようなプロットで描いていったかを考察しつつ、結局は経験則へと落としこんでしまいました。『歴史の方法』を契機に、西川長夫さんとの歴史叙述をめぐる論争もあり、日本にもホワイト的問題の動きもないではなかったのですが、しかし、やはりマルクス主義の圧倒的な強さ、実証主義の強固さにより議論が開かれず、ずるずると四十数年が経ってしまったといわざるを得ないですね。
岩崎 
 マルクス主義について、歴史学の個別の事例に即しておっしゃったんですけれども、たとえば一九三〇年代の「東亜共同体論」だとか、アジア主義に関わる様々な言説を現在読むと、当時は激しく中で互いに議論していたと思いますが、当事者の自覚を超えて、諸々の言説の構造が似ていると感じられるんですね。京都学派の哲学者たちを見ていても、本流である人たちと左派の人たちが、政治的には強く対立しているはずなのに、双方の語りは歴史哲学的な思考において相似的になっています。同じ京都学派なのだから当たり前だといわれるかもしれませんが、当事者としては、同時代の政治状況に対して全面的に対決しながら、京都学派内部とも国家権力とも戦いながら語っているテクストが、反動的な言説と同じ構造から出ていない。なぜこういうことが起きるのか。ここも当事者の意識を超えたところで規定している喩法の問題まで降りて考えていくと、はっきり見えてくることがあるのじゃないか。三木清や梯明秀のテクストを振り返ると、そのことを強く感じますね。
橋爪 
 おふたりの話をうかがっていて感じたことですが、やはり、ある程度の時間的な距離が取れなければ、自分を規定している暗黙の構造、ホワイト的に言えば根底にある喩法を、自覚的に捉えなおすことは困難である、という事情もそこにはあるように思います。成田さんはその意味では、一九三〇年代の歴史叙述を史学史的に反省する作業を行なうさい、事実的な時間の経過から生じる距離感を生かせる立場におられた。実際に史学史の作業を行なってこられた立場から、岩崎さんの話を受けて、コメントをいただけますか。
成田 
 橋爪さんの指摘は、あらためて自らの足元を見直させます。まず、一九三〇年代の歴史学あるいは歴史をめぐる知の状況を考えたとき、マルクス主義が台頭するなか、京都学派がそれに対抗するような議論をしていたことです。さらに、明治維新史研究を代表とする実証主義の歴史学も形を作りはじめていた。つまり実証的主義とマルクス主義と、構築主義的な歴史認識――この三派が鼎立する状況がみられます。では、ホワイトの『メタヒストリー』が出たあとはどうだったか。一九八〇年代から九〇年代の前半までは、まだマルクス主義が健在であった。それとともに、マルクス主義の歴史観を相対化しようとする社会史的な潮流が出てくる。そして実証主義も存在し、ここでも三派鼎立の構造がみられます。ホワイトの『メタヒストリー』を補助線としたとき、こうした配置が浮かびあがってきます。

他方、その三派鼎立のとき、たとえば京都学派とマルクス主義が、イデオロギー的には対立するけれども、認識論的には共有する部分があり、実証主義とマルクス主義は、向かう方向は違うにもかかわらず、史料に向き合う姿勢は共通するなど、三者のあいだには反発と重なり、共存と背反という関係がみられます。歴史の考察がアクチュアリティを持ち、知的な活動として活性化する時期として、一九三〇年代が把握できます。歴史の転換期ということであったでしょう。
では、<いま>はどうかといえば、現実の変革、あるいは現状認識を考察するとき、歴史を知ることがあまり大きく寄与していない、役に立っていないといわざるを得ない。グローバリゼーションというのは「いま、ここ」を最重視しますから、歴史的な深みを考えたり、歴史を参照軸とすることを拒否することと表裏をなしていると思います。あらためて、一九三〇年代や七〇年代、九〇年代には、現状を考える際に、歴史を土台とし、そのことをふまえ認識や方法の違いを発見し、対抗軸を作っていっていました。歴史が現在を語るのですね。

<いま>もまた、歴史の転換期であることは疑いないでしょう。しかし、歴史が参照系とはならない転換期です。その意味で、<いま>は歴史学にとって不幸な時期であると思います。
橋爪 
 知が三派鼎立の構造の中で存在する、あるいは複数性をもって対立の中で立ち上がってくる。そういう状況があったことを振り返ってみると、歴史や歴史学の知が有意味である時代と、それが無意味化している現在がある。その意味では、一九三〇年代、七〇年代、九〇年代の状況が、現在を理解する手がかりになるんじゃないかということですね。
成田 
 はい。多くの歴史家・思想史家の関心が、一九三〇年代に向かった理由の一端が、ここにあるように思います。いまひとつ、史学史に関わって述べておきましょう。『メタヒストリー』は、十九世紀の歴史叙述を分析対象とする巨大な史学史として提供されています。そして、先に指摘したように、歴史哲学と組み合わせ論じることによって、深層にまで入り込んだ史学史になっています。歴史学のなかの私などが読むと、『メタヒストリー』は、方法としての史学史にも見えてきます。つまり歴史認識の推移としての史学史でもあるし、史学史の対象を拡大する可能性にも満ちているようにも思うのですね。史学史が、アカデミーの歴史学にのみ属するのではないということであり、同時に、ひとつのものとして見えた歴史学のパラダイムが、複数同時代的にも存在するし、通時的にも存在することがあきらかにされました。
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