柳田国男(短期集中連載) 田山花袋のことなど ――柳翁新春清談 下 友の話 『週刊読書人』1962(昭和37)年 1月15日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月10日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第408号)

柳田国男(短期集中連載)
田山花袋のことなど ――柳翁新春清談 下 友の話
『週刊読書人』1962(昭和37)年 1月15日号 1面掲載

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柳田 国男氏
写真は東京・成城町の自宅で
私が旅をするようになったのは田山花袋の影響が大きかった。田山は江見水蔭の感化を多分に受けていたらしいのだが、大変な旅行家で、どんなひどい山の中でも歩いていたし、またどんな汚い宿屋も平気で泊れる男であった。

その田山にはじめて会ったのは私が十六の時、「しがらみ草紙」に歌文を寄せはじめた頃のことであった。当時、松浦萩坪しゅうへい翁の門に入って、さかんに歌を学んでいた私は、そこで十九歳の田山を識ったのである。

田山は歌を学ぶ反面、当時ようやくはやり出した西欧の小説なども読み漁り、やがて「オレは読むだけでいいのだ」ということで英語の夜学にも通い出していた。田山の家は父親のいない家庭で穏健な兄さんが家庭をきりまわしていた。そこで田山は旅行さえしていれば自由な身になれるので、どこへでも出かけていったらしいのであった。私を日光へ呼んで、日光の生活を味合わせてくれたのも田山のおかげであった。たしか明治三十年のことだったと思う。

日光といえば、私がはじめて当時の大家、文学青年のあこがれの的だった尾崎紅葉の顔を見たのも日光でであった。田山がある日「今日は尾崎さんが見えるので迎えに行かなくちゃ」というので、私もどんな人か、まだ尾崎紅葉を知らないので神橋の傍までついて行った。向うから派手な浴衣にチリメンの兵子帯をして何も持たずに二人歩いてくる。それが紅葉と石橋思索の二人であった。橋の上ですれ違って一寸挨拶したのを覚えているが、紅葉氏の顔はただ一度その時に見ただけである。紅葉氏の家と私の家とは距離的にも近かったのであるが、往き来はしていなかった。

「少し固すぎる位真面目な人間が、後生大事に小説を書いている、それが田山だった。…」と、私は田山のことを以前に書いたことがあるが、世の中では田山のことを大分誤解しているのではないかと思っている。もう今では田山のことを誰もいわなくなってしまったが、ただ何となく全体に世の中から忘れられて行くというのは可哀想なものである。文学史は機械的に年代別を論じ、グループをひとまとめにして批評したり、ただ無闇に賞めたり悪くいったりするが、同じグループでも、個々の人物はまるで立場も作風も違っている点を無視してしまいがちなのは困ったものだと思う。ここの処をこうしたのがあれのいちばんの仕事であったというように、仔細に書いてくれたと思うのである。

泉鏡花とは大学の寮でいっしょの部屋に入ってから長い間交際していた。後に泉君は牛込横寺町に紅葉が住んでいた時、そこで玄関番をやっていたが、ある日、私が学校の部屋での外を通ったとき、畔柳芥舟君だったかが、「おい上らないか」と呼んだので、私は窓に手をかけて一気に部屋に飛び込んだ。その時、部屋の中に居合わせていた泉君がそれを見てすこぶる爽快に感じたらしい。泉君の「湯島詣」という小説の中に、窓から身軽にとび上る学生のことが書かれてあるが、あれは私のことである。

いろいろなことを思い出すが、少年時代から青年時代にかけて最も私が影響を受けた人といえば、森鴎外氏である。

森さんは、医者で歌をやっていた私の次兄(井上通泰)の親しい友人であって、その兄が岡山へ帰る時に、私のことをいろいろと頼んでいってくらたのであった。子供だった私は、森さんのお宅に伺うとお菓子が食べられるので、よくお訪ねしたものだが、森さんはいつも快くあってくれた。

森さんは年の若いものに対しても、少しも年齢差を意識しないで「あれは読んだかね」とか「あれは面白かったから是非読みたまえ」とかいってくれるのであった。私はそういってもらえるのが本当に心良かった。森さんは「君は若くて分らないだろうが……」などということは一度もいわない人であった。(やなぎだ・くにお氏=民俗学者)
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