福原麟太郎×高見順×河盛好蔵×吉行淳之介 座談会 『週刊読書人』1961(昭和36)年1月1日号 “笑い”の世界と人生 新春放談 ユーモアに関する6章|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月17日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第356号)

福原麟太郎×高見順×河盛好蔵×吉行淳之介 座談会 『週刊読書人』1961(昭和36)年1月1日号
“笑い”の世界と人生
新春放談 ユーモアに関する6章

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1961(昭和36年)新年号
4-5面
「笑う門には福来る」。1961年の新年号は「ユーモア」をテーマに2人の外国文学専門家と2人の気鋭の作家による豪華座談会を掲載。日本と海外のユーモアの差異、ユーモアとウィットの違い、などを福原麟太郎、高見順、河盛好蔵、吉行淳之介の4氏が語りあった。(2019年編集部)
第1回
暖かい笑い、冷たい笑い “おかしさ”とは一種の価値転換 ①

ユーモアの定義

河盛 
 福原さんのお書きになったものに、ユーモアの定義が出ていたのを読んだことがありますが。たとえば『エリア随筆』の中の「万愚節」の話が例に上がっていまして、歴史あって以来の馬鹿ものの列伝のあとで、作者が突如として、「しかし自分はばか、、が好きなのです」と書く。こういう人生の見方がユーモアによる見方であって、言いかえてみれば一種の価値の転換である。人間には絶えずこんな風に価値の転換を試みる必要があるのではないか。そうすれば、自分で自分を縛っている一つの標準的なものの見方、考え方から自由になることができる。そこに余裕とくつろぎが生まれる。するとおのずから微笑を禁じえないことが世上百般のことについて生れてくる。時としては声をあげて笑いたいこともあろう、それがユーモアというものだ……というお話だったと覚えているんです
福原 
 れそはイギリスの話で一般にユーモアとは「おかしいこと」なんでね。やっぱりその国々によって、おかしいことが違うと思います。イギリスの場合には自分たちの人生観から生まれていっているというような、そういう考えを持ったものをヒューモアと言っていると私どもは思うんです。
高見 
 英文学じゃ大へんなんですね。むずかしくて。
河盛 
 ところで、ユーモアという言葉はもともとギリシャの生理学で、人間の性格を作る胆汁質とかいう液体ですからユーモアとは体質的なものだと思うんです。別にウィットという言葉がある。しかし、フランス人とイギリス人の考えているユーモアとは、少し違うようですね。
福原 
 アメリカ文学の西川正身君なんかに言わせると、アメリカ人のユーモアというのは、また違うんだといいますね。
河盛 
 日本人のユーモアというのも、これまた違いましょう。
高見 
 フランスの文学には、ユーモアがない。
河盛 
 つまりイギリス風のユーモアがないんです。エスプリはなかなかありますけどね。笑いというものを冷めたい笑いと暖かい笑いとに区別すれば、ユーモアというのは、暖かい笑いだと思いますが。フランスでは暖かい笑いより、諷刺のような冷たい笑いのほうがもてはやされる傾向だ。
高見 
 でも、なにかエロチック……そういうのにくっついたもの、なにか、いき、、なものがあるんじゃないかな。
河盛 
 さあ、いき、、といえるかどうか。アンドレ・モーロアはエスプリとユーモアを区別してこんな定義をしています。大体われわれは絶えず圧迫を受けているものを、笑いの対象にしたい欲望を持っている。アメリカの男性はいつも女性の圧迫を感じているから、女性が、いつも笑いの対象にされる。その場合、笑いの対象を直接言葉の矢でもって射るときそれがエスプリになる。しかしユーモアはそうじゃなくて、笑ってやりたい対象の笑うべきいろいろの点を、こちらが模倣する。時としては誇張してまねをするとこちらが笑われる。つまり自分自身を人に笑わせることによって、間接に自分が笑ってやりたい対象を笑う、それがユーモアだと。
高見 
 発散させるのですね。
河盛 
 ええ、その発散の形式がエスプリとユーモアでは違うというんです。たとえばサーカスで、空中にぶら下った梯子へと飛び移る軽わざがエスプリで、一方道化師がその真似をしようとして、無器用にいすをひっくり返し、みんなの笑いを招く、これがユーモアだ、と説明する。

とにかくユーモアには自己否定の精神がなくちゃいけない。
福原 
 そうね。つまりイギリス流のユーモアというものは諸行無常みたいに考えるんですよ。人間、みんなばかだ。人間はみんな無価値だというふうなところに引き下げて考えると、価値が転倒しておかしくなるというような……。
高見 
 昔、有名な言葉だけど、島崎藤村の「ユーモアのない一日は、真にさびしい一日である」と。僕はあんなおもしろかったことないね。あの人自身がユーモアもなにもないのが、ユーモアのないのはさびしいなんて、なんともいえないユーモアだね。
福原 
 島崎さんは、ちっともおかしいことを言っているつもりじゃなくて、人が見ておかしい。そういう場合と、それから自分がおかしいことを言うつもりで言おうとしている場合とあるわけですね。だけどイギリス人はダジャレとかでおかしがっていたということもたしかです。十九世紀の初めは非常にシャレのはやった時代、その時にラムが、自分が一生に聞いたうちで一番いいシャレに出くわしたというんですよ。実際は、自分が言ったシャレなんですけどね。どっかのオッサンがモッコへものをかついて来た。片方のモッコには、白ウサギが一匹いる。それを呼びとめて「これはあなたのウィッグ(白い毛のカツラ)ですか、それともあなたのヘアですか」“Is this your wig or hair”と聞いた。つまりウサギという英語のヘアと頭の毛のヘアと、それからそれが白くてぼやぼやっとしているところがカツラに似ていると、三つのシャレを一ぺんに言ったというようなもの。
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