桑原武夫×堀田善衞  日本文化の座標 アジアと西欧へ開かれた特異な窓 『週刊読書人』1959(昭和34)年 1月1日号 2面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月24日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第256号)

桑原武夫×堀田善衞 
日本文化の座標 アジアと西欧へ開かれた特異な窓
『週刊読書人』1959(昭和34)年 1月1日号 2面掲載

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第3回
多元的な思考が必要 アナーキー化に耐えて

堀田 善衞氏
桑原 
 思想ということになると、これはちょっとそのままものになりにくいから、そこに問題があるんですがね。西洋の思想が、トラクターのようにアジアの平原を走れるかというところが問題……。たとえばアジア・ナショナリズムというようなことをいうわけでしょう。ところがヨーロッパのナショナリズムを研究している学者、たとえばコーンとかヘイズとか、こういうスタンダードになっている人でも、アジア・ナショナリズムはよくつかめない。いつかコーンがアメリカの雑誌に書いているのを見たけれども、彼はナショナリズムを認めるわけですよ。フランス革命の時のナショナリズムなんか、大変高く評価するわけだ。ところが、このごろのアジアのナショナリズムは閉口だというわけなんですよ。

本当のナショナリズムは個人の自由――もう少し伸ばして行けば、個人主義という要素がなくてはならない。ところがアジアのナショナリズムというのは、一向、個人の自由がないじゃないか、こういう議論だけどね。これはムリな話なんですよ。遅れた国で追いつこうという時に、個人の自由を一番先にやっていたら、民族全体としては、いつまで経っても伸びないわけだから、それを伸ばして行こうと思えば、何らかの大改革をして、改めて行かなければならん。民族として結集して、民族としての地位を上げるという、そういう段階が必要になってくると思うんですけれどね。どうもそれが、西洋人にはわからないんです。わからないのか、あるいはわからない顔をするのかね。
堀田 
 個人の自由という基本的な問題でも、基本的だからといって個人の自由というある抽象的でしかも普遍的な形が現実にあるかというとね、ぼくはそういうものはないと思います。その民族の生活様式なり歴史なりがそれぞれ必ず入って来る。だからやっぱりぼくは個人の自由というような基本的な問題も、基本的でありながら、多元的であると思いますね。個人の自由ということに関して、普遍絶対のような形があるかといえば、そんなものはないと思いますよ。多元的であるからこそ、おのおのが触れあって文化文明が成立した。
桑原 
 ギリシア、ラテンから出て来たヨーロッパ流の考え方で考えた個人というもの、それがインドにないとか、中国にないではないかというのは意味をなさん。
堀田 
 やっぱりギリシア、ラテンから来て、フランス革命を通ってというのは、ワン・タイプです。それぞれ一つのタイプにしかすぎないと思いますね。すぎないから良くないかといえば、それはそれとして大変いいことで、それを絶対視するのは間違いじゃないかと思います。
桑原 
 中国の建設というものを個人の自由というものさしだけではかって評点はつけられないと思うんだ。日本は明治維新をやって、それから科学が進んで、相当の程度のところまで来ていますから、ある程度ヨーロッパ人と同じように考えたがる、考えられる社会基盤があることは事実です。日本では個人の自由が大事だ。ですから警職法に反対しなければならんということは重要だ。けれども警職法に反対しているくせに、個人の自由のとぼしい中国を認めるのはおかしいと、極端にいえばですよ、そういう議論になっちゃいけないと思うんですよ。日本と中国は違うんだから。
堀田 
 いろいろな状況があるということ、つまりその差が、二千年前から原子力まで、それが人間の世界に存在しているという。一歩あやまればアナーキーになっちまいますが、そういう状況に耐えて行く馬力が必要だと思うな。まあ単純化すればラクになるから何でも一つにして、ヨーロッパ至上主義になっちゃったり、アメリカ至上主義みたいになったり、何にでもなりがちだけどね、そういうイージーな考えは、やっぱりイージーだと思うな。
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