柄谷行人氏ロングインタビュー  普遍的な世界史の構造を解明するために  『世界史の実験』(岩波新書)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月1日 / 新聞掲載日:2019年3月1日(第3279号)

柄谷行人氏ロングインタビュー
普遍的な世界史の構造を解明するために
『世界史の実験』(岩波新書)刊行を機に

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第3回
第一次大戦後の世界

柄谷 
 たとえば、エマニュエル・トッドは、二〇一五年パリのシャルリ事件について論じた『シャルリとは誰か?』(文春新書)で、フランスには四種類の家族システムが残っていると主張したのですが、その際、彼は言語地理学における「周縁地域の保守性原理」という仮説にもとづいたと書いています。これは、かつて柳田国男が「方言周圏説」を唱えたときに依拠した、フランスの言語地理学の考えを回復するものです。だから、もしトッドやダイアモンドが新しいというのであれば、柳田も新しいといわなければならないはずです。

――今の話に関わりますが、柳田国男にとって、ジュネーブにおける経験は、様々な面で、とても大きな意味を持ったことを、本書では強調されています。
柄谷 
 ジュネーブ滞在が柳田にもたらした、もうひとつの変化があります。帰国後の柳田は、大正デモクラシーと呼ばれる運動の先頭に立ち、普通選挙実現に向けて、率先して活動するようになります。なぜ、彼がそのような運動に関わることになったのか。それは、第一次大戦後の世界的な状況に深く関係します。ヨーロッパでは、大戦で死んだ、戦闘員および民間人が約三七〇〇万人だといわれています。国際連盟が設立されたこと、また、社会主義革命の運動が起こったことは、その意味で、当然です。

それに比べて、日本は第一次大戦に参加したとはいえ、その被害は微少でした。だから、ヨーロッパで起こっていることが、日本人には実感できなかったと思う。柳田はジュネーブで、第一次大戦後の世界を経験しながら、日本との違いを痛感したのではないか、と思うのです。ところが、一九二三年関東大震災が起こった。その報を受けて、彼は国際連盟の仕事を途中で投げ出して、急遽帰国しました。たぶん、彼は震災で日本は変わると思ったのでしょう。死者は約一〇万ですが、地震が首都に起こったことが大きい。そのために日本人は、第一次大戦後のヨーロッパに起こったことを初めて実感できるようになったのでないか、と思います。 

大戦後になされた世界史的な「実験」が二つあります。一つは国際連盟であり、もう一つはロシア革命ですが、その現実性が日本で感じられるようになったのは、震災後です。そこに急遽戻ってきた柳田が、何をしたか。ジュネーブでやっていたことを日本で実行したのです。たとえば、ブルジョア的民主主義を批判する「民本主義」を唱えた吉野作造とともに、「大正デモクラシー」を代表するような運動を担うようになった。大正デモクラシーというと、大正時代と思われますが、むしろその終わり頃、つまり、大正一二年の震災以後に生じたものです。

今にして思えば、日本史において稀に見る、実験的な時代でした。あの時代に、柳田国男は吉野作造に並ぶ人物であった。吉野は東京帝大法学部教授で、彼の指導の下でできた「新人会」から、マルクス主義者が輩出したのです。この時期、柳田と吉野は共に朝日新聞の論説委員であり、また、エスペランティストでもあった。彼らは普通選挙の運動だけでなく、エスペラントを普及する運動も一緒にやっていた。この時期、柳田はもはや詩人ではないが、官僚でもなく、活動家だったのです。それを見ると、柳田はとても『遠野物語』に代表されるような人ではない。しかし、今はそれしか読まれていない。これでは、柳田国男の姿は見えてきません。

――柳田国男は、柄谷さんがおっしゃった二つの「世界史的な実験」(=国際連盟とロシア革命)を、自らかなり意識して行動していたのでしょうか。
柄谷 
 意識してやっていたと思います。だけど、周りの人には通じないと思っていたでしょう。実際、柳田の考えが理解されることはなかった。
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