柄谷行人氏ロングインタビュー  普遍的な世界史の構造を解明するために  『世界史の実験』(岩波新書)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月1日 / 新聞掲載日:2019年3月1日(第3279号)

柄谷行人氏ロングインタビュー
普遍的な世界史の構造を解明するために
『世界史の実験』(岩波新書)刊行を機に

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第6回
「実験の文学批評」

――次に、第一部のⅡ「実験の文学批評」についてお伺いします。柳田国男と島崎藤村を比較して論じることにより、柳田の「実験の史学」を、より鮮明なかたちで浮かび上がらせていきます。ふたりにはいくつもの共通点があります。たとえば、「父親がいずれも平田派神道・国学を熱烈に追求し、神官にまでなったということ」。その父親との関係はどのようなものだったのか、比較考証し、さらに思考を広げていく。ここが本書の核となる論点の一つです。
柄谷 
 柳田と藤村が似た経験をしているというのは、前から知っていました。ただ、「実験」という観点から考えていくと、また違って見えてくる。『図書』の連載の時は類似にだけ着目し、それを比較することに意味があるとは、考えていませんでした。しかし、比較することにこそ意味がある。それがまさに柳田がいう「実験」である。たとえば、柳田自身は最初「比較研究」という言葉を使っていました。それを「実験」と呼んだ途端に、趣きが大分変ってきます。柳田と藤村を単に比較するのではなく、「実験」するといえば、そこから何かが出てきそうな予感がするでしょう。

私は連載した柳田論を本にする話を断わりました。本にはならないと思ったから。これを一冊の本として出版する気になったのは、柳田がいう「実験」ができると思ったからです。柳田国男と島崎藤村の比較によって、それまで見えなかったことが見えてくる。私はそれを「実験の文学批評」と呼んでみました。とにかく、こんな文学批評はこれまでなかったんじゃないかと思いますよ。

――藤村に関しては、以前から論じようという思いはあったのでしょうか。
柄谷 
 もともと文芸批評家だからね(笑)。長くやってきたから、いろいろ考えたことはあります。それと、アメリカで日本文学を教えていたことも大きいですね。たとえば、『世界史の構造』を英訳してくれたマイケル・ボーダッシュ(シカゴ大学教授)は、私が一九九〇年代初めにコーネル大学で教えた時、島崎藤村について博士論文を書いていたんですよ。彼からの相談に答える必要があって、藤村について勉強したことがあります。その後、ボーダッシュは『夜明け前』に関して、『The dawn that never comes(夜明けは決して来ない)』という本を出版した。これは日本語で訳出すべき好著ですね。

――『図書』の連載を、当初本にするつもりはなかったといわれました。今日最初に話題となった「マルクスその可能性の中心」も、連載から単行本化に至るまで、四年以上の時間をかけて改稿されています。一冊の本としてまとめるにあたっては、また違った要素が必要とされるということなのでしょうか。
柄谷 
 連載中は、とりあえず書いてみる、という感じですからね。それを一冊にまとめる時は、一からやり直すことになります。また、途中で、当初考えてもいなかったような考えが出てくることがある。たとえば、一九九三年ごろ、『探究Ⅲ』を連載し始めたのですが、九八年ごろに中断した。今もはっきり覚えていますけど、その頃、尼崎行きのバスに乗ろうとした時、交換様式というアイデアが、突然浮かんだのです。そして、バスから降りたときには、全部できていた。しかし、その途端に、それまで連載してきたものを本としてまとめることができなくなった。その結果、全面的に書き直して『トランスクリティーク』と題する、別の本を作ったのです。この本は今から見れば、交換様式について、まだ初期的な書き方をしていますが、以後は、それにもとづいて考えを練り上げた。それが『世界史の構造』です。

そこからふりかえると、柳田国男も、以前と違って見えてきたといえます。つまり、柳田の仕事を、交換様式の観点から見直すと、腑に落ちる面が多い。また逆に、柳田を参照することによって、『世界史の構造』で論じた問題に関して理解できるようになったことも多かった。「山人」ということも、これまでとは違った観点から考えられるようになった。また、武士が狩猟=農民であるという柳田の考えも納得できた。
交換様式の四種の形態
 ――『世界史の実験』を拝読していて、もうひとつ興味深かったのが、『憲法の無意識』との繋がりです。柳田国男が、敗戦間際に「いよいよはたらかねばならぬ世になりぬ」と記していたこと、また戦後間もなく、「新たな社会組織が考え出されなければならぬ」と発言したことに、柄谷さんは着目されています。そして、枢密院顧問として新憲法制定の審議に加わっていたことを踏まえて、「九条」のような平和憲法を考えていたのではないかと、推理する。非常にスリリングな展開で、まさに批評の持つ可能性を存分に味わうことができます。
柄谷 
 一九二八年に、パリ不戦条約が締結されました。この条約は国際連盟に関与した人たちによって考えられたものですから、同じ精神に基づいている。柳田は当然、不戦条約についても熟知していた。一方、同じ年、日本では、三・一五事件が起こり、共産党員への弾圧が強まる。その五年後には、共産党幹部であった佐野学、鍋山貞親らが転向の声明を出し、戦前の日本の共産党は、事実上終わる。またこの年、日本は国際連盟を脱退します。満洲事変に端を発して、戦争へと向かう体制が整えられていくことになるわけです。柳田がジュネーブ滞在以来考えていた道筋とは、正反対に進んでいくことになった。そのような状況の下で、柳田は何もいわなくなったんだろうと思います。

しかし、柳田は決して諦めることはなかった。だから、戦争末期に、彼は「新たな社会組織」ということをいいはじめたのでしょう。柳田のその気持はわかるような気がする。私は今世紀のはじめごろ、NAM(新アソシエーショニスト運動)という運動をやっていました。二年で解散しましたけど、別にあきらめていない。もう一度やろうと思っていますよ。
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