『すばる』が大フィーバー  倉本・清田・矢野、三人の論客による〈平成〉論、綿矢りさ「生のみ生のままで」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月3日 / 新聞掲載日:2019年3月1日(第3279号)

『すばる』が大フィーバー  倉本・清田・矢野、三人の論客による〈平成〉論、綿矢りさ「生のみ生のままで」

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『すばる』を読みながら、お風呂に浸かっていたら、あまりに熱中しすぎて軽い脱水症状になった。それくらい、今月号の『すばる』は大フィーバーしている。とりあげたい作品がいくつもあるのだけれど、紙幅の都合で次の4つの作品に限って言及する。

まず、目次を開いて気付くのは、三人の論客による〈平成〉論が載っていることだ。順に触れていこう。倉本さおりの「『少年ジャンプ』論」。『ジャンプ』を論じる際に避けがたい罠というものがある。それは、語るや否やマチズモに絡め取られてしまうということだ。確かに、そういう論は実に多い。否、これまでの『ジャンプ』論、全てがそうだったのではないか。倉本は数多くの文献を読み(しかし、それをひけらかすことなく)、その陥穽に気づき、そうではない『ジャンプ』論を構築した。しかもチャームなエクリチュール(!)という批評の魔法を使って。そして、見事に、『ジャンプ』女性読者の権利を復権することに成功している。ある漫画の名言を借りれば「天晴れだ。誉めて遣わす」といったところだろう。続編を切に希望する。

清田隆之の「さくらももこ論」は、倉本とは逆に、『ジャンプ』のノリに乗れなかった「私」のこじらせた思春期を、さくらももこがいかに救ったかという自分語りエッセイのような体裁をとっている。さくらももこの作品を分析し、四象限に落とし込めた手さばきは鮮やかだ。また、人間の存在を「human doing」(絶えずある行為をしていなければならない)と「human
being」(ただそこにいれば良い)に分けて考え、平成とは前者によって覆い尽くされた「真面目さの時代」だったのではないか、と論じる点も秀逸。さくらももこの作品とは、それに対するアンチテーゼであり、beingであることを肯定するものだったのだ、と清田は言う。大きく首肯せざるを得ない。

矢野利裕の「小室哲哉論」は明晰かつ、緻密な論述によって、一つの小室哲哉の物語を編み上げている。小室哲哉とは、ひいてはJ―POPとは「皮相な欧化主義」と「ナショナリズム」が絡み合ってできたものだと論じる。そして、小室はそのなかで世界に対抗するという目標をデジタル技術によって達成しようとした、数少ない才人であると言う。デジタル技術とはすなわちシンセサイザーであり、そのテクノロジーによって、「世界を見据えつつ」、かつ、「日本でしかいられない」、独特の音楽表現を作り上げたのだ。そう述べる矢野のストーリーテリングは滑らかだ。しかし、一つ、疑問を提示すれば、矢野がナショナリズムというタームを使うとき、それは一人歩きしてないだろうか。平成に漂ったナショナリズムと小室が纏ったナショナリズムは果たして同一なものなのだろうか。そんな疑念が浮かぶ。

最後に、綿矢りさの長編「生のみ生のままで」が完結した。傑作の誕生を寿ぎたい。ある同性愛の恋愛物語だが、なにより、文章が良い。微流の電気を触ったときのピリッとした感覚。大事な人の手を握りしめたときのぬくもり。寒空に一人でいるときのわびしさ。そういったものを、言葉の隅々から感じさせる。ラストまでページを繰る手が止まらなかった。

以上が『すばる』。もう二作『群像』から。宮下遼「青痣」。嘘か誠かわからない幻の煙草を探しに行ったという名目で、子を置いて去った母。娘は母に甘えたい。けれど、それが許されない。その世界を、紙芝居、灰色の毛の猫、そして煙草というアイテムを、有機栽培よろしく、有機的に使って、描いた秀作だ。米田夕歌里「本当の先生」は、名前を剥奪され、ペルソナをかぶって振舞わなければならなくなった塾の女性講師の、信頼、をめぐる物語だ。仮面の下にある本心を知らなければならないという強迫観念と戦い続ける彼女の孤独な心情には同情するが、惜しいのは、最後の一ページで物語を説明してしまっているところだ。終わりに恋人が迎えに来る。それだけで、言葉を費やすことなく、納得させて欲しかった。(ながせ・かい=ライター・書評家)
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