蓮田善明 戦争と文学 書評|井口 時男(論創社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年3月9日 / 新聞掲載日:2019年3月8日(第3280号)

特異なる実践者、蓮田善明
蓮田の銃口、三島由紀夫の自刃の刃が向けられた先は

蓮田善明 戦争と文学
著 者:井口 時男
出版社:論創社
このエントリーをはてなブックマークに追加
 近代日本のナショナリズムの難題は、「死への誘い」に集約される。かつて福田和也を痺れさせた岡倉天心の「堂々男は死んでもよい」(「日本美術院の歌」)は、その最たるものだろう。井口時男は本書で、持統天皇から「死を賜った」大津皇子に託して、「今日死ぬことが自分の文化である」、「かゝる時代の人は若くして死なねばならない」と宣言した蓮田善明の「大正の精神」から、「昭和の精神」への屈折、転回を粘り強く検証する。

因みに、先のマニフェスト(「青春の詩宗―大津皇子論」)は昭和十三年(一九三八)のものだが、敗戦直後の八月十九日、南方戦線ジョホールバル(現マレーシア)で、連隊長を射殺し直ちに自決した蓮田陸軍中尉は、三島由紀夫(その名付け親・清水文雄は蓮田の文学同行者)に決定的な影響を与えたにもかかわらず、その存在は「解禁」(井口)されぬまま今日に至っている。

井口は本書で、国文学研究者であり教育者でもあった蓮田のリベラルな「大正」から、過激な「昭和」戦時期への精神史的転回を「転向」とみなし、結果的にそれを隠蔽しつつ蓮田の最期を、徹底抗戦に反対した上官の射殺と、潔い自決という物語に回収した評伝作者・小高根二郎に根底的な疑義を呈している。

最も精彩を放つのは、昭和天皇の終戦への「聖断」を拒んだ蓮田の詩(=死への欲動)と行為(=死の遂行)を、先の「転向」の具体的な立ち現れとして、解きほぐしてゆく精確な批評的手さばきである。

それにしても、何故、いま、蓮田善明なのか。それは彼が、ただの浪漫的国文学研究者(先年、岩波現代文庫で蓮田の『現代語訳 古事記』が刊行された)ではなく、「死」と深く切り結んだ、特異なる実践者だったからだ。

研究を逸脱して思想を実践する者の絶対条件は、解釈や解読ではなく、何事かをを命ずることにある。熊本出身のマイナー・ポエット蓮田にあっては、自身にも、そして他者にも、死を命ずることによって、戦後長らく「解禁」されざる思想者(=作品行為者)となったのだ。そして、蓮田善明問題が今なお未解決であり、井口時男によって平成末期の今ここに、その不穏な影が召喚されなければならなかった理由は、昭和天皇の終戦の「聖断」への疑義が、思想的に有効であるからに他ならない。

評者はここで、天皇の「戦争責任」問題を蒸し返そうとしているのではない。むしろそれは、事の本質の矮小化にすぎない。井口時男は「終章」で、昭和天皇の「人間宣言」は、「現人神」たる天皇の「明白な「転向」宣言である」と論断している。これは「当人」の「個人的」な意思を超えた、言葉の位相の問題なのだ。井口によれば、「死ね」と命じた「現人神」天皇が、神ならぬ「人間」として、国民に「生きよ」と命じたことが「転向」なのである。したがって戦後の象徴天皇は、「神聖性を失って堕ちた天皇にすぎない」。

井口時男はそこから、蓮田善明問題を、同じく未解決の三島由紀夫問題に繋げてこう結論づける。紛れもなくそれは、井口的な批評の強度が、頂点に達した一節である。

「蓮田善明の銃口が遠く照準にとらえていたのは、また三島由紀夫の自刃の刃がまぼろしの切先を向けていたのは、その堕ちた「人間」としての天皇である。神聖天皇をよみがえらせるためには堕ちた天皇を(象徴的に)殺すしかない。だから蓮田善明は堕ちた天皇の象徴(代理者)としての連隊長を殺し、三島由紀夫は大掛かりな儀式を演出して自分の生首を神聖天皇蘇生のための祭壇に贄として供えた。まさしく二人は「師弟」だった」と。
この記事の中でご紹介した本
蓮田善明 戦争と文学/論創社
蓮田善明 戦争と文学
著 者:井口 時男
出版社:論創社
以下のオンライン書店でご購入できます
「蓮田善明 戦争と文学」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
井口 時男 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 日本文学 > ノンフィクション関連記事
ノンフィクションの関連記事をもっと見る >