白痴 書評|坂口 安吾(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
更新日:2019年3月9日 / 新聞掲載日:2019年3月8日(第3280号)

坂口安吾著『白 痴』

白痴
著 者:坂口 安吾
出版社:新潮社
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白痴 (坂口 安吾)新潮社
白痴
坂口 安吾
新潮社
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『白痴』には大きなテーマが描かれている。それは「虚無という愛情」である。

主人公の伊沢は、戦時下に文化映画会社に勤めながら、芸術の独創を無用とみなす戦意扇動の国策映画製作に不満を募らせていた。しかし、目先にある200円の給料の卑小な呪縛に為す術なく、低俗な仕事を続ける自らに苦悶していた。伊沢の日常は空虚であり、生活のために芸術を犠牲にし、その情熱を死なせていた。そんな伊沢のもとにある晩、隣家から逃げてきた白痴の女が転がり込み、その女と同棲をすることになる。

白痴の女は何も考えることをしない。無機物のように生活をしているだけだ。「浅薄愚劣」な時代性や「やりきれない卑小な生活」も、伊沢にとっては大ごとであるのに、女にとって何の意味も持たない。

しかし、そんな二人が抱える虚無は、おのずと戦争という巨大な破壊に身を委ねていくように筆者には思えた。その破壊は自らを呪縛する様々な生活の枠組から脱却させるに等しい。「全ての人間」に等しく死が迫る様相を「虚無の切ない巨大な愛情」と表現した伊沢は、戦争という圧倒的な力を前に無力で従順な人間の運命に、ある種の美しさを感じているのではないかと思う。

人々はそれぞれが多様な個性を持ち合わせていると思っている。アイデンティティ、教養や経験、芸術的センスや独創、それらは人と人との間に境を作り出し、他人と自分の差別化を意識させる。しかしこの戦時下において、独創などといったものは「言葉の上だけの存在」であり、その自我の意識も常に流行によって左右される空虚なものでしかない。空襲の下では、正誤善悪は虚しく忘却の彼方へと去り、全てが無意味になる瞬間に、伊沢はカタルシスのようなものを感じているようにさえ思えるのだ。

そして、伊沢は死と隣り合わせの状況にこそ生の実感を得た。空襲の中で、二人は必死に生き足掻こうとしている。それは虚無の充足、生への渇望、人が本来持ち合わせている本能そのものだ。

しかし終末に、空襲を逃れた伊沢が眠る女を眺める場面があるが、彼の心には既に、生への絶望も希望もなかった。女はもちろん、自分さえも「ただ、在るだけ」の存在。命の危機、生の躍動と実感を終えた伊沢にとって、女も自らも、実に空虚で意味のない存在に成り下がった。その一節に「人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが。捨てるだけの張合いもなかった」とある。

伊沢はこれまで、人生の真実に懊悩してきた。一方、女は白痴だ。目の前の現実に流されるまま生きていた。女は余計な事柄に縛られない。社会正義も共同幻想もなく、社会的地位や生育環境も関係がなかった。刹那的な快楽だけを求め、本能的な欲望に従い生きるのみだ。

悩み続けることが真理か、悩まぬことが真理か、果たしてどちらが幸せの形なのか。伊沢は空襲で死んだ方が幸福であったか。生き永らえた方が良かったか。伊沢と女を見ていると、そんなことを考えてしまう。

物語の結びで、伊沢は焼け跡に見向きもせず、眠る女を起こしてなるべく遠い停車場を目指して歩き出そうとする。黙って立ち去ればいいものを、伊沢はなぜ、紙屑を捨てるだけの張り合いすら持てなかった女を、わざわざ起こすのか。私はこの場面に「虚無という愛情」のテーマが集約されているように感じた。伊沢は自身の虚無を白痴の女に投影しているように思えた。この停車場の持つ意味は、伊沢の人格獲得のある種の帰着点であり、出発点であるだろう。生きることで虚無が満たされることはない。ただその虚無を愛しながら、満たされぬまま引き連れて歩いていくしかないのだ。

「虚無という愛情」とは、白痴の女や戦争のように、自分の意識が到底及ばない世界観。掴もうとも掴めない「何か」が存在する実感である。
この記事の中でご紹介した本
白痴 /新潮社
白痴
著 者:坂口 安吾
出版社:新潮社
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