対談=片山杜秀×山本貴光 魅力に満ちた赤き偏愛 『鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史』(講談社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月8日 / 新聞掲載日:2019年3月8日(第3280号)

対談=片山杜秀×山本貴光
魅力に満ちた赤き偏愛
『鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史』(講談社)刊行を機に

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第3回
終焉の地のクリエイティビティ

片山 杜秀氏
片山 
 しかし、ポストモダン以降、相克を飛び越えている人が出現しているのも確かでしょう。作曲家ですと、六〇代の西村朗や細川俊夫は、日本やアジアを引きずらないと自分の世界が成り立ちませんが、四〇代の藤倉大になると、日本はかなり消えています。

日本人の暮らしから日本の〝伝統〟がいよいよ薄れたのは、高度経済成長期の途中からでしょうね。旧国鉄の観光標語だと「ディスカバー・ジャパン」が一九七〇年で、「エキゾチック・ジャパン」が八四年です。このあいだに日本は蒸散したのかもしれない。いわゆるグローバリズムの中で、違いや葛藤を意識しない世代が育ち、文化的には分断のないフラットな時代が、訪れているのかもしれません。

しかし、葛藤が無くなれば、よりよいものが生まれるのかといえば、そうとも言えないのではないか。

日本人は大陸の縁の国家の宿命として、古い時代から大陸より流れくるものを受け入れ、確執や軋轢の中から、ある種の融和や結節点を見出し、そこにクリエイティビティを発見してきました。内と外の間で葛藤し、アイデンティティを喪失し、悩み苦しんで、混沌の中から新たに萌え出るものを掴み取る。その方が、文化的な創造物としては面白いものになるのではないか、心を打つものが出てくるのではないか。そんな気がするのです。喪失、混沌からの創造こそ、日本の文化であり、日本人でないと生み出せないものだったのではないか。
山本 
 私も葛藤や摩擦があってこそ、クリエイティビティが発揮されるのではないか、と思うところがあるんですよね。

音楽とは別の例ですが、最近文芸時評の担当を始めて、文芸誌を毎月隅々まで読んでいます。日本の作家たちはそれぞれに工夫と技巧を凝らした創作を行っているとは思うのですが、物足りなく感じることも少なくありません。良くも悪くもすんなり読めて、読後に印象が残らないことが多いといいましょうか。かつてはもう少し同時代の文芸作品を読むことが刺激的で、ものを見る目を異化してくれたようにも思います。それは目下の斜陽のような日本の社会状況を反映してのことなのかもしれませんし、単に現在の私の趣味と合っていないものが多いだけなのかもしれません。

他方で眼を横に転じると、例えば最近の韓国の小説はとても面白い。家族や歴史、政治の問題の中で、小さな個人が七転八倒しながら何を掴み取っていくのか。そうしたストーリーが非常に読ませる。鮮烈な印象が残る。それは置かれた社会や時代の違いであり、作家個人の力量として比べられるものではないでしょう。また、数ある作品から編集者や訳者が選んだものを日本語に訳しているわけですから、面白く感じるものが多いのは当然かもしれません。ただ最近の韓国文学、あるいは六〇~七〇年代の日本文学には、もっと切実な熱さや厚みがあったように感じもするのです。
片山 
 社会や時代の抱える問題が自分ごとになったとき、その切実さが他者に伝播する表現となりえるのかもしれませんね。

松村禎三の歌劇『沈黙』が「極限のグランド・オペラ」となり得たのは、日本人がキリスト教を題材にした西洋式オペラを作るという難題に、葛藤し絶望し、自らの弱さをそのまま作品にさらけ出したからこそだったのではないかと思っています。あるいは三善晃のオペラ『遠い帆』が名作なのは、西洋にも日本にも依拠できない自身を、作品を通して喪失者のアイデンティティとして、積極的に表明したから、だと思うのです。
山本 
 この本を読んで痛感したことがもう一つあります。結局のところクリエイターは、自分の経験だけを創作の材料にできるのではないか。レヴィ=ストロースが『野生の思考』で書いたブリコラージュというのでしょうか。ある課題を前にして、手元にあるもの、記憶からすぐに取り出せるもの、自家薬篭中のものを、ありあわせて作って対応する。

例えば、本書で描かれる松村禎三であれば、かつて子供の頃耳にした音に加えて、結核療養中のごく小さな、ほとんど動きのない世界の中で、懸命に物を凝視し宇宙を想像し続けた。絶望の中にあってこそ、生や音楽に執着し、それが「蓄積」「発酵」されて音楽になっていくんですよね。
片山 
 松村の旋律は、みっしり、くどくど、じめじめ、じわじわ、二度や三度の狭い幅でうごめきますが、それは少年時代に京都で聞いていた、お経やご詠歌の響き、旋律がベースなのでしょう。まさに環境と実感に裏付けられている。
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この記事の中でご紹介した本
鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史/講談社
鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史
著 者:片山 杜秀
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
「鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史」出版社のホームページはこちら
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