対談=片山杜秀×山本貴光 魅力に満ちた赤き偏愛 『鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史』(講談社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月8日 / 新聞掲載日:2019年3月8日(第3280号)

対談=片山杜秀×山本貴光
魅力に満ちた赤き偏愛
『鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史』(講談社)刊行を機に

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第4回
エコロジカルな音楽評論

山本 貴光氏
山本 
 片山さんは『歴史という教養』の中で、「音楽とは、つまり歴史」だと書いています。具体的には「三拍子のワルツは歴史抜きにあるものではない」「現場を経験し脳内にいつでも再現できるようにならないと、作曲するのでも演奏するのでも、踊るのでも聴くのでも、ワルツらしくならない」と。これを読んでそうかと腑に落ちたことがあります。

『鬼子の歌』という本の魅力を、人にどうやって説明したらいいか。一つは先ほど申し上げた「語り口」があります。もう一つは「エコロジカルな音楽批評」だということです。この場合の「エコロジー」とは、ドイツの生物学者ヘッケルが造語した当初の概念です。ある生物を知ろうとする際、その生物がどんな場所に棲息し、周りにはどんな動植物がいて、どんな自然環境で暮らしているのか。その関係の全てを見るという「生態学」のことです。

この文章の中には何人かの片山さんがいるように感じます。まずは耳にした音楽を知覚し、意識に生じた出来事を言葉に変換する片山さん。先に述べたようにイメージを喚起する語りが読者をドライブします。

それだけではありません。他方に別のカメラを据えて、この音楽を作った作曲家の人物と生涯にライトを当てる片山さんもいる。

伊福部昭であれば、古代氏族の由緒ある家系であると神話にまで遡り、北海道での育ち、父親の仕事の関係で少年時代を過ごした「音更」という土地のこと。村長(父)一家はアイヌと親しく交際し、息子はアイヌ・コタンに出入りして、その原始的で素朴な生命力あふれる歌や音楽を見聞した。加えてヴァイオリンを独習し、ラヴェルやファリャやストラヴィンスキーを愛聴した――と彼を形作る生育環境や経験が、織りなされていくのです。

しかし一個人の評伝でも終わらない。その周りに友人がいて、師匠がいて、ライバルがいる。バルザックの人物再登場法のように、前回脇役だった人に今回はスポットが当たったりもする。個人が点だとすれば、複数の点のあいだに線が繋がってゆく。そこから人物同士の関係や違いも浮かび上がる。そういう場を捉える片山さんもいる。

そして人のみならずその人が育った土地や環境の歴史・文化・社会・政治・経済・技術の影響が繙かれる。本書では殊に世界大戦が例外なく誰の音楽にも影響を与えている様子が窺えます。先ほどエコロジーといったのは以上のような見立てからでした。

つまり音楽を中心に据えて、それがいかなる条件で成り立っているのかを、個人や文化や社会の歴史に尋ね、あらゆる糸を多重に立体的に編み合わせていく。音楽とはまさに歴史抜きにはありえないことが感得されます。

また、片山さんの文章それ自体が、まさに一つの交響曲のようです。一方ではそれぞれの音楽家が好んだ音階を響かせ、他方では人物の背景を語り、時代の推移を映し、執着した文学作品、関わった映画が響き、最後にはそれらの音が織りなすハーモニーが耳に残る。あるいは不協和音が次の章へと導いていく。

こうした片山さんの書きぶりは、どのように身につたものなのでしょうか。こんな文体を一体どうしたら発明できるのでしょうか。
片山 
 私としては、自分の好きなものを人に説明するのに、最も効果的な方法を試してきただけのことなんです。それは仕事をする以前からの、趣味興味に起因するものですね。

つまりマイナーなものに幼少年期からなぜか興味が向いていたのです。たとえばプロ野球なら、読売ジャイアンツのファンになればよかったものを、近鉄バファローズになってしまって(笑)。映画は幼稚園から大好きでしたが、やはりみなの好む映画と少し違う。当時はハリウッド映画が人気の中心でしたが、私はもっぱら人気のない日本映画。それでも、黒澤明ファンですとかいっていれば楽でしたが、平田昭彦という脇役俳優を殊のほか好きになりまして。

ジャイアンツやハリウッド、モーツァルトやベートーヴェンが好きです、といえばいきなり印籠を出したようなもので、ああそうですか、とそこで納得されます。ところが私の場合、まず「誰ですか、それは」とか「何で近鉄が好きなの」となるわけです。すると、説明せざるをえない。しかも相手に興味を持ってもらえるように。
山本 
 そうですね。漱石、鷗外が好きだといえば、特に説明しなくても「『舞姫』が」とか「『門』が」と話を始められますが……。
片山 
 ええ、それなら知らない方が恥ずかしい、ということになるでしょう。でも「伊福部昭の『日本狂詩曲』が」なんていっても、なかなか通じません。下手に知っている向きには、かえって面倒な人が多かったりもする。日本のクラシック音楽作曲家なんて馬鹿にしていて、子供の私に、「伊福部なんて『ゴジラ』の映画音楽家だろ、そんなものを聴く暇があったら、もっとベートーヴェンを聴き込め」と説教してくる大人もいて。

そこで、そういうインテリ気取りの大人をやっつけないといけない(笑)。たとえば、伊福部の先生は、ロシア人作曲家のアレクサンドル・チェレプニンで、その父はニコライ・チェレプニンで、彼はリムスキー=コルサコフの高弟にしてプロコフィエフの師匠で、そんな環境で育ったアレクサンドル・チェレプニンは、ストラヴィンスキーやプロコフィエフと子供の頃から付き合いがあったんだ、と畳み掛けていく。するとインテリの大人もたじろぐ(笑)。子どもの頃から自ずと、あちらを手繰りこちらを手繰り、関連性から説明して、少しでも自分の愛情の対象を他者に承認させようと訓練してきたんですね。

八〇年代のポストモダンの時代になると、それまで王道以外見向きもされなかったところが、本も音楽も映画も、幅広く接して何が悪いという環境が整い、趣味の多様化が進んでいきました。私は幼少期から、勝手に多様化していたので(笑)、大学院生だった二〇代後半から、子供の頃から鍛えたロジックを発揮し、さらに訓練していく仕事の場を与えられて、いまに至っているわけです。大学に勤めたのは四十代半ばですから、それまでは基本はフリーライターの暮らしですよね。
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この記事の中でご紹介した本
鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史/講談社
鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史
著 者:片山 杜秀
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
「鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史」出版社のホームページはこちら
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