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更新日:2019年3月12日 / 新聞掲載日:2019年3月8日(第3280号)

「剥き出しの生」、ずれへの感性  佐藤零郎監督作品『月夜釜合戦』

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3月9日(土)からユーロスペースほか、順次公開 
©2017『月夜釜合戦』製作委員会

泥棒の仁吉はある日孤児の貫太郎に出会い、私娼のメイと一緒に彼の面倒を見るようになる。貫太郎の手には、亡き父から渡された釜。実はそれは釜足組の大事なお釜の盃で、二代目の襲名に必要なため、組員たちは必死になって探している。佐藤零郎の『月夜釜合戦』はこの釜騒動を軸として、寄せ場の釜ヶ崎の人間模様を滑稽な調子で描く。貫太郎はちょび安で、メイは櫛巻きお藤のようだ。

父の言葉が理解できていれば、貫太郎はこの釜が釜足組のものだと知っている筈だが、やくざにとっていかに重要なものかまでは分かっていない。とはいえ、貫太郎にとってもこの釜は重要だ。父が有難がっていたし、大事に扱えとも言っていたからだ。だが、そこにランドセルへの欲望が重なる。小学生が背負うのを見て以来、貫太郎はランドセルを欲しがっていた。仁吉の押入れの奥にあったランドセルは、貫太郎が背負うと壊れてしまう。普通ならそれを修理して使うところだが、何故か貫太郎は釜に肩紐をつけ、どう見ても使い勝手の悪いランドセルを作り上げる。こうしてランドセルへの欲望と父から受け継いだ釜への愛着が混ざり合い、釜の価値は奇妙な様相を呈するのだ。またこの時、ランドセルに偽装され、釜は人目につかないものとなる。代紋がはっきり彫られているのに、何故か誰もこの釜が釜足組のものだと気づかない。

釜足組の釜がこの上なく貴重なのは、このやくざの集団が作り上げたコードのなかでのことだ。だが、釜はコードを逸脱し価値を変える。つまり、釜足組の釜は貫太郎の手に渡り、全く個人的でいびつな価値を授けられる。その上、この釜の紛失により釜ヶ崎のあらゆる釜の価値が、飯を炊くという実用性を超えて突如高騰し、住人たちは釜を必死に集め出す。釜の価値だけでなく、あらゆる物の価値が相対的だ。例えば、メイと公娼のアケミの間で、マッチは異質な価値を示す。メイがアケミにマッチ箱を投げて渡す時、アケミが直接受け取れず、床に落ちたマッチ箱を拾うのはその暗示なのか。後に価値の差異が顕在化する時、二人の関係も変化するだろう。

やくざはやくざ社会のコードに縛られ、組長の息子だけがこのコードに馴染めずに悩む。一方、釜ヶ崎の住人たちは共同体のコードにとらわれず、自分の欲望の赴くままに生きる。欲望は絶えず変化し、それに応じて物の価値も変わる。そんな欲望や価値を生きる人たちの表情が、どれも素晴らしい。ただし、演じる俳優がいいだけではない。例えば、男と一緒に坂道をのぼる時の、アケミの表情が心に残る。この時、そのアップが通常の見せ方と微妙に異なり、この繊細なずれが女優の表情の魅力を倍増しているのだ。佐藤零郎の才能は何よりこうしたずれへの感性にある。基本に忠実なだけでは、既成のコードを拒否する釜ヶ崎の人々の魅力を表現できる筈がない。

釜ヶ崎の住人は社会のシステムから脱落した人々であり、アガンベンの言う「剥き出しの生」に相当する。彼らは例外状態にあり、まさにそのことによって生政治の対象となる。つまり、生政治は彼らを社会から排除しながら、再び取り込んでいるのだ。そうした動きに対する抵抗運動が、映画の終盤で描かれるのは自然なことだ。この運動がコードに縛られたものであり得ないことも当然である。

今月は他に、『マチルド、翼を広げ』『アクアマン』『半世界』などが面白かった。また未公開だが、アルフォンソ・キュアロンの『ROMA/ローマ』も印象的だった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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