まなざしが出会う場所へ 越境する写真家として生きる 書評|渋谷 敦志(新泉社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年3月16日 / 新聞掲載日:2019年3月15日(第3281号)

まなざしが出会う場所へ 越境する写真家として生きる 書評
撮ることで世界の〝境界線〟を問い直す
自らの声と他者の想いの関係を、見つめ返す思索

まなざしが出会う場所へ 越境する写真家として生きる
著 者:渋谷 敦志
出版社:新泉社
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写真家・フォトジャーナリストの渋谷敦志は、高校生の時にベトナム戦争の戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の生き方に憧れを抱いたという。そこから、写真家になることを決意したが、阪神大震災の現場で、人にカメラを向けることへの「重さ」に慄いた。
しかし、そこからの回り道こそが、彼の写真の方向性に大きく影響する。その後、ブラジル留学研修に応募した彼は、セバスチャン・サルガドの写真と出会う。一ノ瀬泰造の生き方に大きく揺さぶられた彼だったが、自らが撮る写真の道しるべとしては、サルガドに決定づけられたのかもしれない。
だが、彼の写真家としての人生は、まだそこからでもなく、次の言葉が胸に刺さって歩み出した。
渋谷は、ある外国人写真家に大阪・釜ケ崎の日雇い労働者の街を案内していた。その時、「お前は何が撮りたいんだ」と彼から問い詰められ、渋谷は「ぼくはサルガドのように社会を変えるための写真を撮りたい」と言った。すると、こう返される。「『サルガドになりたい』をやめて、自分の声を見つけろ」。
この言葉の意味を自らに問い続けた渋谷は、その後は一ノ瀬のような生き方でもなく、サルガドのような写真でもなく、自らの視線と出会った人々からのまなざしを強く意識するようになったように見える。
スマートフォンの写真や映像が、世界中どこでもネット空間で瞬時に流通するようになって、写真家やフォトジャーナリストたちは、撮ることはもちろん、自らが瞬時に写真で撮られる、見られる、さらされる時代を迎えている。日本に限らず、世界中でメディア不信が渦巻く中、撮る側はその撮影行為や言動、人間性までが、あらゆる機会で見透かされているような状況だ。
特に、紛争・戦争・災害現場などの人間の生死が剥き出しになる場所では、カメラを向ける行為自体が、人々から非難にさらされることも多い。
渋谷は世界各地のそんな現場を回る度に、ボーダー(境界)を意識するようになったという。それは、撮る側と撮られる側、見る側と見られる側、生者と死者、そこで暮らしている側とそこに入っていく側、そうした境界線の隔たりをいかにして越えられるか、あるいは、それを溶かすことができるか。そうした彼の思索が写真に反映されているのだろう。
渋谷はこう記す。《ボーダーは人と人をわける線(ライン)ではない。人と人が対等に出会い、違いを引き受け、あるいは違いを越えて、あるがままにつながることができる可能性を宿した場所(ランド)なのだ》。
渋谷は、写真を撮るという行為を通じて、自らの声と他者の想いの関係を、常に見つめ返す。そこから社会に放つ自らの写真を通じて、写真を撮る側と撮られる側と、そして写真を見る側の線を越境するような、新しい想像が生まれるような場所を模索してきた。
「写真家とはボーダーに立つ境界人だ」と渋谷は語る。彼のまなざしと、彼の写真に浮かび上がる人間のまなざしを見つめることから、線や壁や偏見で分断される世界のボーダーをあらためて問い直す。
この記事の中でご紹介した本
まなざしが出会う場所へ 越境する写真家として生きる/新泉社
まなざしが出会う場所へ 越境する写真家として生きる
著 者:渋谷 敦志
出版社:新泉社
以下のオンライン書店でご購入できます
「まなざしが出会う場所へ 越境する写真家として生きる」出版社のホームページはこちら
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