鷲巣繁男×内村剛介×秋山駿 終末と始源 『週刊読書人』1973(昭和48)年1月1日号(1月8日号合併)1~3面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年4月14日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第959号)

鷲巣繁男×内村剛介×秋山駿
終末と始源
『週刊読書人』1973(昭和48)年1月1日号(1月8日号合併)1~3面掲載

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1973(昭和48年)新年号
1面
 六十年代後半から、今年あたりまでをふり返ってみますと、三島事件に始まり、連合赤軍事件、リンチ事件、テルアビブ事件など一連の非常に奇怪な、ひとをおののかせるような事件が連続しています。これらの事件は、何かしら思想的にも存在論的にも、われわれに涯まで来たという感じを抱かせるわけです。また一方では公害問題や残虐な殺人事件、政治的な変動などが続発しています。
こういう傾向は、今後増々強くなっていくのではないでしょうか。

こういったようなことが来るとこまで来たという一種の終末的な感じを抱かせると同時に、一方来るとこまで来てしまったという意味では、新たに何かしらとてつもない絶望的な事態が始まりつつあるといった感じもするわけです。われわれのうちに漠然と蔓延しつつある、ある種の危機感を分析すれば、このように二つの要素にわけられると思うのです。いったい出口というものを見つけ出すことができるのでしょうか。“終末と始源”といういささかオーバーなタイトルをつけたのは以上のような理由によるわけです。今日は、このようなことをふまえたうえで、縦横に話合っていただけたらと思います。(編集部)
第1回
不合理としての終末 人間の能力自体に対する不安が

秋山 
 去年は事件が多かったわけです。それは大地震というものじゃないけども、人の心理的な面に動揺と刺激を与えるような事件が多かったと思うわけです。それは、生きた英霊・横井さんの生還があり、連合赤軍の銃撃戦、あるいはリンチ事件というものがありそれからまた、ノーベル賞作家の川端康成の自殺ということがあり、テルアビブの空港乱射事件がありと続いてきて、いちばん最初の事件は、もうはるかかなたにあるような気さえするんですけど、一種の刺激的な、異様な事件が相次いだということは言えると思うんです。

そういうときに、何かしら、ふつう日常と見えていた、われわれの目の前のあるものが、何か変わりつつあるんだろうか。その変わりつつあるものの中で、何かが終わりに達しようとしているのか、それとも、予期もしなかったような新しい動きのほうへいくのかというような疑問が生ずる。こういう事件に対する感触といったような形で、その背後にある見えないものについて、言ってもらいたいと思うわけです。
内村 
 いまここへ来る途中東京新聞夕刊で谷川健一さんの「一年の回顧」を読んだんですが、それによると今年の出来事はこうなります。野心家の大統領が万里長城で愛嬌をふりまいた。それから、高松塚の古墳の壁画が発見された。ニクソンは外套を着ていてまだ寒かった。高松塚の古墳が掘られたときには、日本列島、たいがいのところでは桜が咲いていた。沖縄の復帰は真夏。田中さんが汗をかき、うちわをチラチラさせながら、北京料理のテーブルで、“佐渡おけさ”を聞きマナーのいいところを見る(笑い)ごく最近に至って、北辺の少数民族アイヌが、アイヌモシリつまり、アイヌの国土を主張しはじめたが、これはもう冬である。大きな事件は奇妙に日本の季節とみ合っていると言うんだね(笑い)。季節に敏感な日本人は、この季節とともに流されることもあり、そういうことでまた流されていくんではなかろうかというのが谷川さんの観測なわけです。

“終末”であるとか、“初め”であるとかいうことは、彼は言っていない。いずれにしても日本人はそういう外側の大事件とのかかわりなしには日本を見られない。これは伝統的なパターンであって日本人は、外側のやつにベッタリひっつくか、外側のやつを徹底的に軽蔑するか、どっちかでしかないと谷川はいう。高松塚について朝鮮だ、中国だとか言ったってはじまらない。なるほどそれらは当時の支配階層の文化のパターンを示すものではある。だが、常民のそれではない。中国問題にしたって、なるほど田中さんと周さんの話し合いはできたし、権力と権力の間の交流はできたけれども、人民と常民の交流はいっこうにないではないか。そんなものがみつからんうちは、何をしてもむなしいんではなかろうか。そういうのが彼の観測ですよ。

始源のこと、終末のこととなると…終末なんていわれると、目尻がたいへんつり上がるような感じになってくるな(笑い)。終末といったって、日本人には終末感なんかないでしょう、もともと。われらまことに常世の国の民であって、ケ・セラセラなんですよ、ほんとうは(笑い)。人生の初期のある瞬間に一種の終末をかいまみて、それ以来形而上的終末が頭の中に焼きついちゃっているという鷲巣さんにまず終末ということについて話してもらったらどうですか。
鷲巣 
 “終末”ということばは、われわれの現に生きている部分から見ると、不合理な観念なんですね。それは始源、つまりゲネシスとエスパトスというのは対になっていることばで、ゲネシスをある程度、信ずるというとおかしいですけれども、やはり何らかの形で信じてなければ、終末という観念がほんとうは出てこない。ところが日本人は、ゲネシスの観念もわりに希薄だ。神話の中にわずかに、海をひっかきまわす。こういうゲネシスは出ているけれども、何らかの形であの神話が破壊されちゃっていますよね。そして、なるほど日本神話の中には終末がないんです。アフリカの土人のいろんな詩がありますね。宗教関係の詩とか。未開民族を見ましても、たいがいの民族は、ゲネシスの詩と、多少は終末の詩ももっている。ところが日本民族は、一応りっぱな民族とか大きな民族といわれているけれども、内村さん言われたようにほとんど終末感は持っていない。

広義の終末論というと、人間個人の死も一つの終末論の中に入るわけですけれども、ただキリスト教の場合は、個人の終末が必ず世界の大終末に全部関連をもっているわけですね。ところが日本では、個人の死も、仏教が早く入ってきちゃったのがあれですけれども、日本の入り方というのは、仏教がいろんな段階で入ってきますよね。だから、どれがほんとうの仏教かということは問題なものですから、もともと地獄極楽がない仏教が、日本に入ってきたやつは、みんな地獄極楽が盛んになった。

いちばん大きな問題は、今内村さんが谷川さんのを読まれましたけれども、狭い意味の日本人だけという問題なら、いろいろそういう問題が出てきまして、楽観的だということが言えますけれども、同時に情報も多くなり、交通もはげしくなって、日本人だけでは生きていないんだという意識が強いものですから、ある意味では、世界の人類という概念は確かに強くなってますね。それは江戸時代なんかに比べると、はるかに強いです。

その場合に、何が不安かというと、たとえば去年あったような問題というのは、長い歴史の中から見れば、大したことはないわけです。似たようなことはいっぱいあるんで、いままで、終末意識の強くなった時代というのは、ヨーロッパではペストですよね。日本人はペストに対する恐怖心を全然もっていない。内村さんはよくご存知でしょう。満州は毎年ペストがはやるんで、毎年、ぼくらも兵隊に行っているときに、ペストの予防注射をした。あの恐ろしさは日本にはない。あのペストのために、どのくらいヨーロッパ人は終末観に襲われたかわかりませんね。だから、病気と戦争と飢餓、そのほかに、キリストが入るかペストが入るかどっちかで、いわゆる「黙示録」の四騎士になるわけですけれども、そういうものが日本には欠けてますよね。ペストのようなものすごい恐ろしさがね。ただ末法感はありますけれどもね。たとえば鴨長明が書いている「方丈記」の時代なんかでも、絶えず小さい戦乱はあって、方々で家が焼かれ、餓死する者も多いということで末法感は出てくるけれども、この世がそれで完全に終っちゃうという観念は、あまりもたないんですね。

ところで、西洋では、宗教改革のころからだんだん終末論が鳴りをひそめたわけですね。それは進化論が発達して、人間は善悪をもって努力すれば必ずしもキリストが最臨 しなくても、この世は平和に保てるということでしょうね。それはキリスト教の倫理であろうが、孔孟の教えであろうが、ソクラテスの教えであろうがかまわないわけです。あるいは、そののち人類がいろいろと考えた徳目を実践することによって、善意でもって、人類はまだ終末を迎えてないですむんだという考え方があったわけですね。

進化論と同時に、いわゆる技術の発達がありますよね。いわば人類は、そこから技術の時代に入った。人間を信ずるという、つまり人間主義ですね。それによって安定感を得たわけです。しかし現在少しぐらいの事件でもすぐわれわれが不安を感じるのは、人間をしんじてはいる反面、公害にしろ原水爆にしろ自分たちの作り出したものに対してですね。つまり人間の能力自体に対してですね。はたして人間の力で、人間のつくり出すそういうものを防げるかどうかということに対する不安。これがいちばん大きいんじゃないか。中国とソ連との友好も、けっきょくそれは何がつながっているか、それは原水爆がつながっているにきまってますけれども。それを、もっと大きくいえば、いままでは人間の善意を信じ、人間の能力を信じたけれども、逆にこんどは、人間の能力に対して人間自身が恐怖を感じている。そうなってくると、はたして人間が、人間の力だけで終末的な不安を除くことができるか。人間に対してまだ半分は信じているけれども、半分は人間に対する大きな不安ですね。これが技術時代以前の宗教の時代、あるいはそれ以前の呪術時代にこういった小さい意味の終末観を、人類は常にもっていたと思うんです。だから土地の神に対してつねに犠牲を捧げることによって、一年一年ごとの、ある意味の終末を征服するんですね。これは人類の何千年か、あるいは万の単位かもしれませんね。だからいまの公共宗教といわれるのは、呪術時代をある程度たち切るために現われた一種の神といいますか、宗教なんであって、だから半分呪術性をひきずってますよね。つまり呪術は生きてますけれども、しかし、呪術をある程度コントロールしているわけですね。いまむしろ恐ろしいのは、かつての呪術なんかよりも技術なんですよね。だから終末というのは、むかしの宗教でいえば、一つの悪の根源。そのほかに、天炎地変 というような、人力でどうにもならないものに対する恐怖によっているんですね。
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