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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年3月23日 / 新聞掲載日:2019年3月22日(第3282号)

木曜日の子ども 書評
親は、大人は、何ができるのか
子どもを、自らの内に御しがたい衝動を抱えた者として

木曜日の子ども
著 者:重松 清
出版社:KADOKAWA
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木曜日の子ども(重松 清)KADOKAWA
木曜日の子ども
重松 清
KADOKAWA
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 重松清は中高生にも人気がある。その理由は短編小説が学校教科書に採用されているから、というだけではない。いじめや少年事件を扱った作品も多く、かつ、登場する子どもを「大人が“こうあってほしい”と思っている子ども」としてではなく、大人にとっても当事者である子ども自身にとっても得体の知れない部分を孕む存在として、極力子どもの視点に寄り添って描いてきたことにある。

しかし2011年の東日本大震災以降、立て続けに書かれた震災テーマの作品の中では、傷ついた子どもたちへの重松の想いが先走った結果なのか、大人が諭すことができる、懐柔可能な存在として子どもを表象するようになってしまった(拙稿「重松清と「シンゴジラ」」『東日本大震災後文学論』所収を参照)。

本作は、14歳の少年・上田が給食に毒を入れてクラスメイト9人を殺害した事件の7年後の学校に、上田と顔が似ていると言われる少年・晴彦が、前の学校でいじめが原因で自殺未遂をしていづらくなり、転校してくることに始まる。

1997年に起こった神戸連続殺傷事件を起こした「酒鬼薔薇聖斗」を名乗った少年Aが下の世代から神格化され、さらに新たな事件を引き起こす者が登場した、という連鎖をモチーフにしていることは明白だ。

そしてこの小説は、神戸の事件の10年後にあたる2007年から2009年まで小説誌に連載され、そのさらに10年後の2019年に大幅に改稿されて単行本化されたものだ。したがって、この間の時の流れが織り込まれたものになっている。

本作の主人公(視点人物)は少年・晴彦ではない。晴彦の母の再婚相手である義理の父である。いくつかの震災テーマ作品同様に、重松は本作でも子どもに接する大人の側から物語を描いていくのだが、主人公は「血の繋がっていない子どもの父親になれるのか?」と悩む。本作では再び、子どもは大人が一方的に説得・教育可能な存在ではなく、距離があり、かつまた自らの内に御しがたい衝動を抱えた者として描かれる。

といってそれは、『エイジ』など90年代の代表作に登場する、一線を越えていった少年の姿とも異なる。少年院を出てニュータウンに戻ってきた同級生殺し犯・上田に晴彦は惹かれていくが、終盤では上田は自らの考えを少年マンガやラノベの悪役のようにぺらぺらとよくしゃべり、しまいには、みっともないとしか言いようがない姿をさらす。それは『絶歌』やその刊行前後の週刊誌報道で垣間見える元・少年Aのしょうもなさと重なる。にもかかわらず、そういう人間が連続殺傷事件を引き起こしたことへの哀しみもある。

90年代には深刻に語られていた「心の闇」や「心の傷」なるものは、化けの皮が剥がされてしまった。『絶歌』のように元・少年犯罪者が自ら書いた手記によって底が知れたせいでもあるし、神経犯罪学が発達したことでたとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う倫理感の欠如したサイコパスは遺伝と環境の相互作用によってそうなってしまっただけで、反省も説得も治療もそもそも困難であることなどが明らかになってきたこともある。こんな時代に、凶行や狂気に神秘性を見いだすのは情弱の中二病患者だけだ。しかし、目の前の日常に苦しさを感じる子どもの中には、それでも救いを求めてすがり、神秘化に加担し、身近な大人から遠ざかっていく者もいる。

すると結局、一線を越える者の底が割れたからといって、子どもと大人とはわかりあえないのではないか? 親は、大人は、子どもに対して何ができるのか? 何をすれば親になれたと言えるのか? と本書は問う。
この記事の中でご紹介した本
木曜日の子ども/KADOKAWA
木曜日の子ども
著 者:重松 清
出版社:KADOKAWA
以下のオンライン書店でご購入できます
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