この道 書評|古井 由吉(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年3月30日 / 新聞掲載日:2019年3月29日(第3283号)

古井由吉が歩いてみせる道
「この道」を進むかりそめの「一身」=「私」

この道
著 者:古井 由吉
出版社:講談社
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この道(古井 由吉)講談社
この道
古井 由吉
講談社
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 国木田独歩の歩いた武蔵野の道は、まさにそれをたどることで近代という時代の視座を作り上げるような道だった。ときに道なき道を進んで「東京」と「武蔵野」を明確に区分しながら、そこに自然と一体となった美を見出していく。そのまなざしにあったのは、紛れもなく近代的な自己同一性を持った一人称の「自分」、「武蔵野」という土地を「発見」する統一的な主体としての「自分」である。

古井由吉が『この道』で歩いてみせる道は、そうした近代以降の「道」を歩く人々の視界から抹消された、語られなくなったものとしてある。

本書は二〇一七年八月号から二〇一八年一〇月号まで文芸誌「群像」に掲載された短編をまとめたものである。全編に道にまつわる話が出てくる。


現の光景ながら、自身の知らぬはずの、遠い記憶をまのあたりにした心地がした。(中略)その当時、人に聞いたところでは、夜中に都心のほうで車を拾ってこの辺の行く先を告げると、運転手は浮かぬ顔をしたそうだ。なにしろ、道がどこまでもくねくねとして方角があやしくなり、脇に入れば昔の畦道らしく、うっかりして車輪を畑に落として往生したこともある、などとこぼしたという。昭和の三十年代の初めの頃だったか。(「野の末」、傍点引用者)


古井由吉の道は、くねくねして曲がっていたり、落葉に埋もれかけた杣道であったり、迷ったり、時間が停滞していたりする。決して、目的地への効率的な移動がまっすぐ目指された近代的な道路ではない。

大事なのは、このとき語り手の「私」が、そのくねくねとした道をたどるように、人から聞いた話や過去の記憶を紡いでいくことである。

非人称、希薄ということばで説明されることもあるほど存在感の薄い古井小説の「私」は、入院中の病室で「自身の息とも人の息ともつかずにい」て外の様子に耳を傾けたり「途方に暮れる自身が見え」たりする。自他の境があいまいになり、ときには自身が見える離人現象を起こすほどの「私」。


わたしという存在は一身の過去の記憶の、よくも思い出せないものもふくめて、漠とした積み重ねの上に立つと取るのがまず穏当である。(中略)しかし母体の内にあった時、さらに受胎の時までさかのぼれば、はるか地の底の、忘却の湖に漂っているにひとしい。この忘却の内にすでに生涯の定めが萌しているとしたら、人の記憶ははかない、徒労のようなものになる。


個の記憶を訝りつつ「私」は希薄化されていく。一方で顕著なのは「人は生まれてくる時には手を握りしめ、死ぬ時にはやがてひらきはなしにすると言われる」「墓参りというものをしたことがない、と言った人がある」のように、誰ともつかない集合としての「人」という主語の頻出だ。これにより語る主体は、個ではない集合へと融合され始める。


霊魂の不滅を信じる人間が世界の過半数を占めるとしても、かりに合理の洗礼を受けた近代の大都市に暮らす以上は、すくなくとも一般の議論の場には霊魂の不滅というようなことを持ち出さぬのが作法だとも心得ている。しかし、(中略)人類が原初の社会を営み出した頃にはすでに、一身を超えた共同体の存続を願って、(中略)精霊、先祖の霊という観念が求められたと思われる。(「行方知れず」)


この「一身を超えた共同体」というものは、「合理の洗礼を受けた近代の大都市」の道を行く者には見えてこない。近代的な先の見通せる一本道を歩む者は、自己同一性を「一身」に受けている存在で、近代的自我による世界の認識を訝ることでしか、自己は「一身」を超えることができないのだ。本書では「この道」を進むかりそめの「一身」=「私」が、他者の記憶や伝聞、歴史、「人」なる主語が入り混じる「自身の背を茫然と見送るような、あぶない境」に身をおくことで、「一身を超える」境地が目指されている。
この記事の中でご紹介した本
この道/講談社
この道
著 者:古井 由吉
出版社:講談社
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