対談=吉川浩満×綿野恵太 ダーウィニアン・レフト再考 連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月29日 / 新聞掲載日:2019年3月29日(第3283号)

対談=吉川浩満×綿野恵太
ダーウィニアン・レフト再考
連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録

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三月八日、東京・千代田区神田神保町のイベントスペース「読書人隣り」で、連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉の第一回が開催された(十二回連続予定、主催=読書人連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録恵太氏が毎月ゲストを迎えて、様々なテーマを取り上げて議論する催しである。第一回目のゲストは吉川浩満氏(文筆業)。テーマは「ダーウィニアン・レフト再考」。この模様を載録する。近日、イベントの全容を動画配信の予定。第二回は、四月一二日一九時より、同スペースで開催。ゲストは與那覇潤氏。「真の知性とは何か。平成とはいかなる時代だったのか」を、改元直前に考える。       (編集部)



第1回
「横議横行」としての批評

綿野  
 トークイベントの初回なので対談に入る前に、「今なぜ批評なのか」という話をしておきたいと思います。トークイベントのタイトルについて考えていた時、初めに思い浮かんだのは、「横議横行」という言葉なんです。この言葉は一九六八年の活動家だった津村喬が、全共闘運動を総括した言葉です。この言葉のミソは、津村のオリジナルではなくて、藤田省三『維新の精神』からの引用だということです。明治維新において幕末の志士たちが、藩の封建的なタテ関係から離脱し、いろんな横のネットワークをつくっていた。この運動を「横議横行」と呼んだわけです。たいして津村は、セクトや党のタテ関係ではなく、好きなことを好きなようにやる全共闘に「横議横行」を見たんですね。そして、横議横行がそれ自体が引用であるように、保守的な思想でもうまく引用してしまえば、革命的な機能を果たすことができるとも津村は考えました。いまではどの運動も水平的なヨコのネットワークを強調しますが、津村のような柔軟性みたいなものは失われています。たとえ保守的な反動的な立場にある人間でも、革命的な役割を果たすことができるし、逆に革新的な立場にいる人間が、反動的になってしまう場合がある。実際に津村が藤田の言葉を読み替えたように、新しい意味を与えるのが、私の中にある批評のぼんやりとしたイメージです。もちろん、ある局面では津村が批判した、「分離結合」(福本和夫)のようなタテの運動も必要ですが、この連続トークでは、立場を超えて、私が面白いと思った言説や人に出会うためのひとつの機会としたいと考えています。

最初のゲストに吉川浩満をお呼びしたのには理由があります。吉川さんは昨年、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)を刊行され、認知科学や進化論が明らかにしつつある人間本性と、そのインパクトについてお書きになりました。自分自身の関心に引き寄せて話すと、いまポリティカル・コレクトネスをテーマにした本を書いているのですが、どうも人間本性に関する新しい知見を無視することができない、と感じています。たとえば、差別問題にかかわる認知バイアスなどの問題がある。そういう問題も含めて、吉川さんに話を聞きたいと思ったわけです。
吉川  
 今回、「ダーウィニアン・レフト再考」というお題をいただきました。なぜそんなテーマを?と驚いたんですけれども、いろいろと思うところはあります。まずはそれについて話をして、また綿野さんにバトンを渡します。

ダーウィニアン・レフトという言葉自体、ご存じでない方もいらっしゃると思います。そういう巨大な思想潮流があったわけではありません。一冊の本のタイトルです。功利主義の哲学者ピーター・シンガーが、二〇〇〇年に『A Darwinian Left』という本を書いた。日本でも二〇〇三年に、シリーズ「進化論の現在」の一冊として、竹内久美子さんの翻訳で刊行されました。邦訳のタイトルは『現実的な左翼に進化する』(新潮社)です。これも悪くないタイトルです。すごく簡単に言うと、ダーウィニズム(進化論)を理論的基盤とした左翼のあり方について論じた本です。のちほど詳しく論じることになるかと思います。

最近、新反動主義とかインテレクチュアル・ダークウェブといった、反リベラル/反ポリティカル・コレクトネスを主張する論客が脚光を浴びていますよね。彼らが武器にする知見の多くは、だいたい進化論のエビデンスです。ということは、ダーウィニアン・ライトなんですね。今はこちらが目立っている。もともとレフトとダーウィニズムは相性が悪かったとはいえ、せっかくシンガーがダーウィニアン・レフトという言葉を持ちだしたのに、実際に目立っているのはダーウィニアン・ライトである。レフトはどこにいってしまったのか。これが、綿野さんが私に問いかけようとした問題なんじゃないかと思うんですね。
綿野  
 そうですね。ルソーの『社会契約論』やホッブスの『リヴァイアサン』にしても、政治についての理論はかならず人間本性に関する問いを含んでいます。
吉川  
 明示的にであれ暗示的にであれ、人間本性についてどういう見方をしているか、その上に議論が築かれているわけですね。
綿野  
 吉川さんがおっしゃったようにダーウィニアン・ライトばかりになってしまって、レフトは何をしているんだと。ただ人間本性に関する考え方は、左翼にとって極めて都合の悪いものだった。特にラディカルな左翼から見ると、受け入れ難いものです。たとえば、認知科学によれば、人間はなかなか合理的な判断が難しい。エドマンド・バークの人間観に非常に近いと思います。バークは『フランス革命の省察』でフランス革命を批判しました。理性によって何事も解決できる、物事はすべて計算できるという考え方自体を批判しました。たとえば、伝統や習慣は古臭い因習に一見見える。しかし、それは蓄積された経験知というべきもので、それを急激に変化させることは最悪の結果をもたらすだろう、と。実際、ジョナサン・ハイトなどはバークを再評価していますしね。
吉川  
 ジョナサン・ハイトのように新たな知見に基づく人間本性を前提にして政治的・社会的な発言をする人は、普通の左翼から見ると非常に保守的に見えるということがある。そしてこれにはそれなりの理由がある。どういうことか。流行りのレガシーという言葉を使えばわかりやすいと思います。エドマンド・バークもそうですが、政治的な保守主義者というのは、歴史的なレガシーを基盤にして物事を考えますよね。何かを変えるにしても漸進的に変えていく。なぜなら、今ある物にはそれなりの理由があり、利用価値もあるからです。

進化論の考え方もまったく同じです。こちらのレガシーは生物学的な歴史、つまり進化の道筋です。人間本性もこのレガシーの上に成り立っている。だから、私の子どもの背中に急に羽根が生えて空を飛べるようになったりはしない。生物学的なレガシーが非常に強くあるわけです。そうしたレガシーに立脚して何かをなそうという点において、良くも悪くも保守主義とは親和性が高い。だからこれまでレフトとダーウィニズムは相性が悪かった。そのことを象徴的に表わすのが、「フォイエルバッハに関するテーゼ」におけるマルクスの有名な言葉です。「人間の本性とは、その現実性においては、社会的諸関係の総体である」というものですね。一方で、ジョン・ロックも同様に、人間を白い紙に喩えている。人間の本性は存在しない。生まれた後の教育や経験によって人間本性はできあがっていく。逆に言うと、社会なり教育なりを変えれば、人間もそれに沿って変わっていくだろう。これが「ブランクスレート説」と呼ばれるものです。スティーブン・ピンカーは、こうした見方は現代のリベラルたちの世俗宗教であると断じ、学問の中でも特に人文学・社会科学はこれに汚染されていると批判している。シンガーも基本的には同じ路線です。
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この記事の中でご紹介した本
人間の解剖はサルの解剖のための鍵である/河出書房新社
人間の解剖はサルの解剖のための鍵である
著 者:吉川 浩満
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」出版社のホームページはこちら
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