対談=吉川浩満×綿野恵太 ダーウィニアン・レフト再考 連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年3月29日 / 新聞掲載日:2019年3月29日(第3283号)

対談=吉川浩満×綿野恵太
ダーウィニアン・レフト再考
連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録

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第8回
カフカの描いた世界

div class="kiji_name">吉川  
 そもそもシンガーは功利主義哲学者として有名ですしね。安藤馨さんが言うのは、功利主義は個人道徳としてはほぼ無理だろうけれど、統治のテクノロジーとしてはこれ以上に有効なものはないということですね。IT関連技術との相性もいい。ただ問題は、そもそも増量を目指すべき幸福なり効用なりをどうやって決めるのか。理想は梶谷さんのおっしゃる通りで、たとえば効用の設定そのものは市民社会の公共的な機能が担い、AIなどのテクノロジーはあくまでそれに奉仕するものとしてのみ使っていく、というものです。しかし、実際にはなかなかそううまくはいきませんよね。
綿野  
 梶谷さんはアーキテクチャーなどの「アルゴリズム的公共性」と、そのテクノロジーやシステムをいかに用いるかという「メタ合理性」を区別していました。EUの施策を例にだして議会やNPOといった市民社会がルールを決め、テクノロジーの暴走を防ぐモデルを指摘しています。先ほど吉川さんがお話された、ロールズの「リベラリズム」の論理と同じですよね。つまり「善にたいする正の優越」という考え方です。しかし、梶谷さんも指摘されるように、このモデルはぐらつきつつある。いまや、「統治」の効用関数は「メタ合理性」=市民社会ではなく、企業の利益によって、結局は資本主義によって決定されつつある。
吉川  
 そういう方向ですよね。中国の場合は、国家も市民も「天」みたいなものに直結していて、そこからアルゴリズムが直に降りてくる。いずれにせよ、効用関数が市民による熟議によって決まることはないでしょうね。
綿野  
 問題の構図としては昔からある官僚制と同じですよね。官僚=テクノクラートの暴走を、議会といった市民社会がどうコントロールするのか。緊急を要する社会状況や経済状況があれば、議会でちんたら議論してる余裕がない。専門家=エリートが決めた方が効率的だ。しかし、それでは「政治」を離れて「統治」が暴走する結果になる。しかし、いまやそのような「統治」は、一国の官僚ではなく、アリババやグーグルといった世界的な企業が握っている。一国の市民社会では歯止めをかけることは難しいだろうし、「マルチチュード」による世界的な反乱なんてもちろん期待できそうもない。
吉川  
 歯止めをかけるのは難しいと私も思います。とはいえ、不運な事故で働けなくなったり、人とトラブルになったりして信用スコアが下落すると、急に家が借りられなくなったり、クレジットカードが使えなくなるといったことが、ふつうに起こりうるわけです。ちょっとしたことがきっかけになって、すべてがうまくいかなくなり、身動きがとれなくなる。誰に聞いても理由はわからないし、誰にも答えられない。なぜならば、それは複雑なアルゴリズムの結果だから。これはなかなかしんどいのではないでしょうか。先に綿野さんがおっしゃった昔からある官僚制の問題、カフカが『城』や『審判』で描いた世界と構図はまったく同じなんですが、それが装いも新たにこれからやってくるという。その手の悪夢は二〇世紀に置いてきたはずなのに。
綿野  
 自由や平等といった市民社会の重要性がそのときになって身にしみるのでしょうか。
吉川  
 今日話題にしたヘイトスピーチやセクシズムといった差別の問題は、半分は言論の問題ですから、同じく言論で対処していくことができると思います。言葉がなんとか生きる場面がある。しかし、綿野さんが繰り返し言われている経済、資本の問題は、いかんともしがたいところがありますね。
綿野  
 「芝麻信用」はやっぱり便利だから、みんな使っている。日本でも似たようなサービスが出てくるでしょう。ヘーゲルが指摘したように、市民社会は「欲求の体系」です。その欲求に市民社会の理念自体も飲み込まれていく。
吉川  
 しかも使っているのがだんだん楽しくなってくるんですよね。ポイントの増減に一喜一憂するようになる。ポケモンみたいなものです。だから「善に対する正の優越」とか「公正としての正義」とか、まったく意味がなくなることはないかもしれないけれども、アルゴリズム的な合理性、統治手段としての功利主義は、これから着実に浸透していくのではないかと思います。特に日本みたいな国では、中間集団がほぼ消滅し、圧力団体も少ないし、市民社会がきちんと機能していないから、アルゴリズム的合理性とホモサケルとしての裸の個人が直結する世界が容易に実現する気がします。なおかつ我々は結構それを楽しんで生きていくであろう。そのとき、道を踏み外してしまったり脇へと追いやられてしまった人びとの声は、いったいどう響くんでしょうね。声を上げようにも信用スコアが低いと音量を抑えられたりミュートされたりするんでしょうか。ポジティヴな声ばかりが大きく響く世界というのもぞっとしません。これが前世紀から急速に進行している世界のリベラル化の帰結であるとしたら、もう少し遊びのある方向に転換する必要があるでしょう。ダーウィニアン・レフトが転轍機の役割を果たすことができるとよいのですが。
綿野  
 最後は非常に暗い話になりましたが、どうもありがとうございました。

  (おわり)
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この記事の中でご紹介した本
人間の解剖はサルの解剖のための鍵である/河出書房新社
人間の解剖はサルの解剖のための鍵である
著 者:吉川 浩満
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」出版社のホームページはこちら
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