9つの脳の不思議な物語 書評|ヘレン トムスン(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年4月13日 / 新聞掲載日:2019年4月12日(第3285号)

脳、そのブラックボックスをこじ開ける
この世の中にはこんな不思議な人がいるのか…

9つの脳の不思議な物語
著 者:ヘレン トムスン
翻訳者:仁木めぐみ
出版社:文藝春秋
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免疫(抗体)の多様性の謎を解き明かし、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進は、免疫の研究に区切りを付けると脳の研究に向かっていった。われわれ人間にとって最大のミステリーが人間だとすると、そのミステリーの大元にあるのは脳である。したがって脳の働きを解明し、そのブラックボックスをこじ開けることは、科学者にとって最もチャレンジングな研究テーマであると言えよう。

筆者は科学ジャーナリスト。彼女もまた脳の不思議さに取り憑かれた人である。多くの取材を経験し、科学論文を読み、情報を集めた彼女は、科学的論評をするだけではあきたらなくなる。ジャーナリストとして知ることになった、脳の特性・疾患・障害に起因する不思議で驚くべき症状を呈する患者に直接会って話を聞いてみようと決意する。こうしてこの本は幕を開ける。

これまでの人生のすべての日を記憶しているボブ。自宅の中で迷子になる究極の方向音痴のシャロン。色盲でありながら人間にオーラを見るルーベン。悪人から聖人に一夜で人格が入れ替わったトミー。幻聴を譜面に起こす絶対音感の持ち主のシルビア。虎に変身する幻覚を持つマター。この身体も心も自分ではないと感じるルイーズ。自分は死んでいると思っているグラハム。他人の感覚とシンクロして痛みを感じる医師のジョエル。

この世の中にはこんな不思議な人がいるのかと感嘆させられるような人物が次から次に出てくる。そして筆者はジャーナリストとして、こうした不思議な脳の持ち主の人柄を描くと同時に、医師や研究者のコメントも織り交ぜ、さらには科学論文を引用し、その脳の不思議さの謎に迫る。多面的なアプローチによって、その特性・症状を分析し、9人が抱える困難を描写していく。

その詳細なドキュメントは、亡くなった脳神経内科医のオリヴァー・サックスの書籍を想起させる。筆者は本書の中でもサックスの名前を何度か出しており、彼に対する畏敬の念が彼女の描写力を高めたのかもしれない。また、医師としてではなく、ジャーナリストとしてどう患者を描けるのかを考え抜いたのではないだろうか。

9人が全員、その困難を乗り越えていたわけではない。しかしある者は自己の症状を受容し、ある者はその症状と折り合いをつけて納得しているように私には読めた。たとえどんなに厄介な問題を抱えていても、人間は強く生きることができるという筆者のメッセージがにじみ出ているように思われる。

9人の登場人物はそれぞれ脳に異常があって、ともすれば私たちとまったく異なる精神を持っているように見えてしまう。しかしよく考えてみれば、私たちもその9人と共通の脳を持ち、同じ脳の働きを基盤として精神活動をしている。そこに不具合が生じて9人は特別な症状を呈しているのだが、その不具合とは実はそんなに大きなものではないのかもしれない。あんがい紙一重なのではないだろうか。

そんな感想を持つのも私の脳の働きである。本書によって何か脳のミステリーが解明されたわけではないが、謎は謎として残っているほうがおもしろいだろう。脳の不思議さに興味を持つ私たちの気持ちはこれからもずっと続くはずだ。
この記事の中でご紹介した本
9つの脳の不思議な物語/文藝春秋
9つの脳の不思議な物語
著 者:ヘレン トムスン
翻訳者:仁木めぐみ
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
「9つの脳の不思議な物語」出版社のホームページはこちら
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