リアクションの滑らかな流れ 中島貞夫監督作品『多十郎殉愛記』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年4月16日 / 新聞掲載日:2019年4月12日(第3285号)

リアクションの滑らかな流れ 中島貞夫監督作品『多十郎殉愛記』

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4月12日から全国順次公開 ©『多十郎殉愛記』製作委員会

時は幕末。愛する女と目を負傷した弟を逃がし、男は大勢を相手に斬り合いに挑む。中島貞夫の新作時代劇『多十郎殉愛記』のこのラストは、伊藤大輔の『長恨』の現存するラストに基づく。主人公と逃げる男女のカットバックも同じで、他にも『長恨』を意識したショットがある。とはいえ、怠惰な日々を送るろくでなしが、女のために命をかけた戦いに身を投じるという物語の枠組み自体は、同じ名前を持つ監督の『河内山宗俊』を想起させなくもない。ただし、山中貞雄の映画では軽妙さと深刻さが絶妙な均衡を保つが、中島貞夫の新作ではひたすら荘重だ。このただならぬ重みは、やはり伊藤大輔の作品世界に通じている。

いくつかのショットに圧倒される。背景の音楽がやんで静けさが支配するなか、竹林の竹と竹の間から追手たちが多十郎に忍び寄るショット。大勢の追手たちが多十郎を三叉路に追いつめる、真上からの俯瞰ショット。あるいは、目を負傷してもがく男を見つめる、河原に立ったおとよのショット。これらを目にするだけでも至福の体験だ。

しかし、三叉路の俯瞰の構図も、河原に立つ女の構図も、完璧に決まっている訳ではない。中島貞夫にとって重要なのは、単に突出したショットを撮ることではない。それはあくまで、ショットの連鎖のなかで一連の生き生きしたアクションが組み立てられること、しかもそこに登場人物の魅力が表れることだ。この点で、多十郎を演じる高良健吾が奮闘している。腰を低くして刀を構える立ち回りが忘れ難い。スタイルのいい役者が姿勢よく刀を構えても、重心が高くてさまになりにくいので、この姿勢のほうがいい。また、大勢を相手にしても決して無闇に人を斬らず、本気で斬る時と軽く怪我をさせるだけの時を演じ分けているのもいい。さらに、殺陣では斬られ役が大事だが、斬る側と斬られる側の呼吸もきちんと合っている。この最後の点は活劇に関して重要なことを示唆する。つまり、活劇を優れたものにするのはひとつのアクションそれ自体ではなく、アクションとリアクションの連携なのだ。よいリアクションがあって初めてアクションは輝くのである。

これは活劇のみにあてはまることではない。あらゆる場面の演技に言えることだ。それがはっきり分かるのは、おとよに扮する多部未華子の受けの演技だろう。相手役の台詞や仕草をいかに受けて、いかに返すか。これが常に的確なので、相手役の演技もひときわ輝く。小料理屋で騒動が起こる場面の演技など、地味ながら絶妙だ。また、前髪で額を隠すことでいっそう鋭くなる瞳も印象的である。

考えてみれば、あらゆるアクションが何らかのリアクションを伴うだけでなく、それ自体が直前のアクションのリアクションである。映画の場面はどれも無数のリアクションの連鎖で構成される。パースの言う記号の二次性に基づく構成だ。そのなかでいくつかのリアクションがアクションとして際立つとすれば、それらが緊密な連鎖のなかで相対的に浮かび上がるということでしかない。

中島貞夫の演出の極意は連鎖すなわち流れにあるのだろうか。見世物として時折アクションやショットを際立たせながらも、それらを決して突出させずにリアクションの滑らかな流れを作る。この流れこそが映画なのだ。

今月は他に、『運び屋』『イメージの本』『ダンボ』『阿吽』などが面白かった。また未公開だが、ジョエル&イーサン・コーエンの『バスターのバラード』も興味深かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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