「平成の三冊」時代を、私を形成した本 31人へのアンケート|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年4月19日 / 新聞掲載日:2019年4月19日(第3286号)

「平成の三冊」時代を、私を形成した本 31人へのアンケート

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第5回
栩木 伸明

平成四年、金関寿夫『現代芸術のエポック・エロイク』(青土社)が読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞したとき、筒井康隆は「本の森の狩人」というエッセイの中で、「自分のガートルード・スタイン体験、ゴシップ、スタインの文体のパロディ」などを満載したこの本の書きぶりを讃美して、「前衛的な文体の実験を行ったガートルード・スタインの評伝にふさわしい手法」だと述べた。研究対象に擬態することにより、その成果を資料としてではなく、文学作品として提示したのが画期的だった。平成八年に出た須賀敦子の『ユルスナールの靴』(河出書房新社)は、マルグリット・ユルスナールの遍歴と、『ハドリアヌス帝の回想』に描かれた皇帝の人生と、「私」の回想が響き合う書物。読書人の自伝であり、ユルスナール論であると同時に、創作とも呼べそうな本作は、画一的なジャンル分けをしなやかに拒絶する。平成二九年に出た伊藤比呂美の『切腹考』(文藝春秋)は、変化に富んだ音楽を奏でる散文で書かれている。森鷗外を読み、その文体を演じ、鷗外の感じ方を生きる実験を試みた本書を、著者は「詩集」と呼ぶかも知れないけれど、「評論」や「小説」と呼ぶ読者がいても不思議はあるまい。平成の三〇年間に、日本語の散文は、古い枠組みを内側から食い破る力強い作品を次々に生み出してきたと思う。(とちぎ・のぶあき=早稲田大学教授・アイルランド文学・文化)

中島 隆博

平成元年に出たエマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』(合田正人訳、国文社)の衝撃は大きかった。日本では当初、実存主義の文脈で理解されていたが、これ以後、その「他者」の哲学が圧倒的な問いかけとなった。それは、全体性に陥る西洋哲学を、ユダヤ教が指し示す無限へと解き放とうとしたのである。

中国哲学では、フランソワ・ジュリアンやアンヌ・チャンの名前も浮かぶが、マイケル・ピュエット/クリスティーン・グロス=ロー『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(熊谷淳子訳、早川書房、2016年)を挙げておきたい。ピュエットはゼミではほぼ言葉を発することがない。しかし、古代中国を対象にする文化人類学者として、「礼」という中国哲学の概念を新たに蘇らせ、西洋近代哲学が前提する超越や内面性を批判的に問い直す際は、実に雄弁である。

平成最後の本としては、グローバル・ヒストリーの地平にある、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』(柴田裕之訳、河出書房新社、2018年)であろう。アルゴリズムに支配された未来に、団結することもできない「無用者階級」が登場するという指摘には考えさせられた。しかし、そこには「スピリチュアリティ」に託した希望もかすかにはあったのである。(なかじま・たかひろ=東京大学教授・中国哲学、比較哲学)

南陀楼 綾繁

砂のクロニクル(船戸 与一)小学館
砂のクロニクル
船戸 与一
小学館
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船戸与一『砂のクロニクル』(毎日新聞社、1991年)

川島秀一『津波のまちに生きて』(冨山房インターナショナル、2012年)

電気グルーヴ『電気グルーヴのメロン牧場 花嫁は死神6』(ロッキング・オン、2019年) 

平成最初の年に雑誌連載された『砂のクロニクル』は、イランを舞台に民族、革命、金というそれぞれの「正義」を奉じる者たちの死闘を描く長篇小説。テロと民族紛争の時代を予見した。船戸与一はその後も『蝦夷地別件』などの力作を発表。病のなか、『満州国演義』全9部を完結した直後に亡くなった。2011年の東日本大震災は、平成の大きな節目となった。この日を境に変わったこと、変わらなかったことは何かが問われる。宮城県気仙沼市に生まれ、漁業にまつわる民俗を研究する川島秀一は、この日の津波で母を失った。『津波のまちに生きて』で著者は、海とともに生きる三陸沿岸の住民の心性を論じ、行政が安易な津波対策をとることに怒りを表明した。平成は、すでに役割を終えたように見えた民俗学が、息を吹き返した時代でもある。平成元年に結成され今年30周年を迎えた電気グルーヴが、20年以上連載してきた『電気グルーヴのメロン牧場 花嫁は死神』は彼らの雑談の力がぞんぶんに発揮されたシリーズ。最新巻を一気読みした翌週にピエール瀧が麻薬取締法違反で逮捕され、怒涛のような報道に接した。今後、増刷も文庫化もされないだろう本書は、平成最後の年を記憶する一冊にふさわしい。(なんだろう・あやしげ=ライター・編集者)

長谷 正人

①坪内祐三『一九七二』(文藝春秋、2003年)

②ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの アルシーヴと証人』(上村忠男・廣石正和訳)(月曜社、2001年)

③ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』(遠藤知巳訳、十月社、1997年)

「平成の3冊」だが、平成という時代とは無関係に、この期間に読んで面白かった本、そして繰り返し読むことで強く影響を受けた本を正直に選ぶしかなかった。もっともそれは決して私個人の趣味の問題なのではなく、思考のパラダイムが平成という枠組みとは無関係に存在していたからだと思う。

①は、21世紀の私たちが自明のものとしている文化的価値観を72年の週刊誌記事を丹念に読んで歴史的に相対化しようとした試み、②はアウシュヴィッツの出来事の意味を考えることを通して、言葉を発することもないような匿名的な人間存在を歴史の底から掘り起こすような試み、③は視覚文化のいま持っているアウラ性を、19世紀の科学的な言説の枠組みから捉え直すことによって凋落させてしまう試みに読めた。あえて三つまとめてしまうと、現代思想のベンヤミン化ということか。いずれの本も、同時代の価値観を相対化しようとしている意味で、歴史性を帯びて迫ってきたのだが、しかし平成という枠組みがいかなる歴史性を持つのかは私にはまだ分かっていない。(はせ・まさと=早稲田大学教授・映像文化論)

幅 允孝

「どんなことでも『平成』でざっとまとめると、いい感じになってしまう。今、一番エモい言葉ですよね、『平成』って。」『平成遺産』(淡交社、2019年)に収録されている詩人の最果タヒとライターの武田砂鉄の対談には、そんな言葉が出てくる。

この本は「時代」という便利ワードで括れない「平成」を抽出しようとするアンソロジーで、写真家、言語学者、漫画家、政治学者など様々な立場の者が、それぞれに過ごした地平から「平成」を語る論集だ。しかも、よい意味で偏っている。

最果は、自身の内側に潜む震災を辿りながら、無数にあった痛みをくるっと風呂敷でまとめてしまうような被災の語り方について書く。武田はSMAPや安室奈美恵ではなく、『「この人のどこに需要があるのだろうか」と疑問視する需要』を根こそぎかっさらっていった神田うのこそ、「その都度流れていく時間」をサヴァイブする「平成」的な人だと力説する。

この2人に限らず、大きな単位に慣れすぎてしまった僕たちは、小さな単位でものを見ることを本に探していた気がする。岸政彦の『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年)を何度も読み重ねたのも、星野智幸の『俺俺』(新潮社、2010年)で自身=「俺」が飽和し溢れる物語に引き込まれたのも、根っこの部分は同じように思う。(はば・よしたか=BACH代表・ブックディレクター)
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