「平成の三冊」時代を、私を形成した本 31人へのアンケート|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年4月19日 / 新聞掲載日:2019年4月19日(第3286号)

「平成の三冊」時代を、私を形成した本 31人へのアンケート

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第6回
平松 洋子


町田康『告白』(中央公論新社、2005年)を読んだ十四年前から、ふとしたとき自分の意識のどこかに熊太郎の魂が漂うのを感じるようになった。熊太郎の思弁やその流れがうねうねと波打ち、読み終わっても、いまだ小説は終わらずまとわりつく。熊太郎に出会ったのが運の尽き。以来、油断していると足もとをすくわれる。自分が言いたいことは本当に言いたいこと、信じていることなのか。いつか、熊太郎の言葉「あかんかった」が自分の口を突いて出るんじゃないか。『告白』は、逃げても追いかけてくる。「名著」とは、かくも容赦がなく怖ろしいものである。

橋本治『巡礼』(新潮社、2009年)には、夥しい昭和が埋もれている。ゴミ屋敷に住むにいたった忠市の足どりを辿りつつ描かれる、日本人の精神の変転。日本人と現実との接合点を、平成の地点に立って俯瞰する橋本治の姿も浮かび上がってくる。それが敗残でも、自滅であっても、時代と関わらずには生きられない人間に差し出された鎮魂の書。

天皇の戦争責任を題材に据えた赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社、2012年)。日本人が置き去りにしてきた問いに、十代の少女の目をつうじて取り組む小説の試み。時代のコマを押し進め、切り拓く一冊として忘れがたい。(ひらまつ・ようこ=エッセイスト)

森山 至貴


まずなんと言ってもジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(竹村和子訳、青土社、2018年:初版1999年)は、フェミニズムとクィア・スタディーズの結びつきを考えるために繰り返し立ち戻るべき一冊である。言葉による粘り強い営みが現実を変えうることへの私の確信は、晦渋な文体に苦労しながら学部生時代に通読したあの経験によって培われたのだと思う。立岩真也『私的所有論 第2版』(生活書院、2013年)は、不正への怒りや正義への素朴な直感を大事にしながら、それを思考の力で練り上げて学問にすることができるのだと教えてくれた。文庫化以前のハードカバー版(勁草書房、1997年)をくりかえし読んでいたら、(私の研究は能力主義も障害者運動も扱っていないにもかかわらず)卒論も修論も「立岩文体」になってしまい指導教員から呆れられたのも今となってはよい思い出である。最後の一冊は斎藤美奈子『妊娠小説』(筑摩書房、1994年)。望まない妊娠を女性に強いる男の横暴をブンガクとしてありがたがってなどやるものか! という著書の啖呵から、知的に小説を読むことの快楽と、しょうもない「権威」なぞ鮮やかに批判してやればよいのだ、という覚悟を受け取った気がする。(もりやま・のりたか=早稲田大学准教授・クィア・スタディーズ・社会学)

師岡カリーマ・エルサムニー


小笠原豊樹『マヤコフスキー事件』(河出書房新社、2013年)

初めてモスクワを訪れたとき、赤の広場を素通りし、真っ先に向かったのがソ連の詩人マヤコフスキーに捧げられた博物館だった。それほどにこの詩人を愛するきっかけとなったのが、小笠原氏による翻訳や名著『マヤコフスキーの愛』との出会いである。深い洞察、誠実な立ち位置、端正な筆致。書く者の理想の姿として敬愛するロシア文学者が、自殺とされているマヤコフスキーの死の謎に迫った本著は、今も手に取るだけでゾクゾクする。

マルチェッロ・ドルタ編『わんぱくナポリタン 小学生の作文が語る60の〝詩と真実〟』(有川道子訳、文藝春秋、1993年)

世界がインターネット時代に突入する前、イタリア南部の貧しい地域の小学生が書いた作文集。痛ましいほどに厳しい生活環境にあっても、明るく、たくましく、一生懸命に生きて、見つめて、考えて、表現する子どもたち。片目で笑って片目で泣きながら、度々読み返しては元気をもらう。

梨木香歩『海うそ』(岩波書店、2014年)

日本の風土。日本の言葉。その豊かさと美しさが染み渡る行間から現れるのは、あまり語られることのない破壊の歴史。これは小説であると同時に映像であり、大地と人の歌である。(もろおか・かりーま・えるさむにー=文筆家)

横尾 忠則


美術以外で最も大きい影響を受けた芸術家といえばフェリーニだ。トゥッリオ・ケジチ『フェリーニ 映画と人生』(押場靖志訳、白水社、2010年)はぼくの「原郷」である。彼は何かを伝えようともしない。「何かのメッセージを込めようとも思わない」のである。この言葉は常に想うぼく自身の言葉でもある。「わたしの映画は文学的でもなく、絵画的なもの」であると言う。フェリーニの映画は生の祝祭と同時に死とも和解し、彼はしばしば死後の映画化を試み、降霊術に出席したり、超自然的な世界に憧れた。この物質的現実に穴を開けてそこから形而上的超感覚的リアリティを引き出す彼の考え方は同じイタリアの画家、デ・キリコの芸術そのものでもある。

2冊目は『ギルガメシュ叙事詩』(矢島文夫訳、ちくま学芸文庫、1998年)である。最近、夢の中で遭遇した「ギルガメシュ」はぼくを夢幻的世界から現実世界にまるで前世の記憶ですよと言わんばかりにぼくの創造に深く浸透しており、そんな実感の中ですさまじい破壊行為を通して創造世界を体感させられている。『ギルガメシュ叙事詩』はダンテの「神曲」と並んでぼくの聖典でもある。最後はフィリップ・ド・ラ・コタンディエール監修『ジュール・ヴェルヌの世紀』(私市保彦監訳、東洋書林、2009年)である。本書は彼の「驚異の世界」を俯瞰できる多数の挿絵によるヴェルヌ百科事典である。(よこお・ただのり=美術家)

吉川 浩満


平成の時代どころか、そもそも時代というものを見通すことがむずかしくなってきたことの次第を、ひとりの著者の仕事から学ぶ。大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫、2009年)は、終戦から大阪万博までの「理想の時代」からオウム事件とともに終わりを迎える「虚構の時代」を戦後精神史のなかに位置づける。大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)は、その後に我々が迎えた「不可能性の時代」における「現実への逃避」という特異な思考行動様式の意味を探る。大澤真幸『憎悪と愛の哲学』(KADOKAWA、2017年)は、資本主義経済の全面化による現在の「時代の不可能性」を克服するための道筋を幻視する。神、愛と憎悪、歴史をめぐる原理的考察を徹底することで、いまや我々には想像不可能となってしまった「資本主義の外側」を示そうとする、著者の到達点にして新たな出発点である。(よしかわ・ひろみつ=文筆家)

四方田 犬彦


原武史『皇后考』(講談社、2015年)

岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、2000年)

土本典昭・石坂健治『ドキュメンタリーの海へ』(現代書館、2008年)

平成の三冊というから、どうしてもこの虚構として分節化された31年の内側にありながら、それを批判的に見つめた書物を選ぶことになった。どの書物も刊行された時点でただちに一読し、深い感銘を受けた。きっとこれからもクラシックスとして残るのではないだろうか。もう一冊選ぶとすれば、辻井喬の『終わりなき祝祭』(新潮社、1996年)だろう。この長編小説が勅使河原宏によって映画化できなかったことは、今から考えても残念である。(よもた・いぬひこ=エッセイスト・批評家・詩人)


「難題」だと思いながら、執筆をお願いした今回の企画。膨大な本の中から選んでいただいた三冊は、ごく恣意的だと断るものでも、不思議と一つの線を描き、それに加えて、それぞれの筆者のお仕事や著書も思い浮かべながら読んでいくとき、「平成」が少し、面として見えてくる気がしました。

短い文章の中におりこまれた出来事――ベルリンの壁崩壊、大災害、原発事故、オウム真理教事件、相次ぐテロ事件、インターネットの普及、資本主義の超克、格差、貧困、対米従属問題。あるいは近代化の問い直しや、昭和の意味の捉え直し、人類の捉え直し、日本語、散文の変化、仮想世界――など、平成の思考の位相も示していただきました。

令和にはどんな本が出るのか、どんな時代になるのか、期待しつつ。(編集部)
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