ベルクソン『物質と記憶』を再起動する 拡張ベルクソン主義の諸展望 書評|平井 靖史(書肆心水)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年5月4日 / 新聞掲載日:2019年5月3日(第3287号)

知的誘惑に富んだ書物
戦闘的な方向性を持ちつつ、堅実かつ古典的なテキスト読解

ベルクソン『物質と記憶』を再起動する 拡張ベルクソン主義の諸展望
著 者:平井 靖史、藤田 尚志、我孫子 信
出版社:書肆心水
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私がベルクソンやフランス哲学と出会ったのは、ちょうど世紀末から第二ミレニアムにかけての時期で、いまから二〇年ほど前のことだ。そのころ私がなんとなく接していた様々なフランス哲学的なものから受けた印象というのは、いわゆる「スピリチュアリスム」の哲学だったり、フランス文学や文芸批評と密接に結びついた哲学だった。それは別に今でも本質的に変わったわけではないし、それだから何かだめだというわけでもない。がしかしサイエンスからはいくぶん遠いところにあるのがフランス哲学だという印象は、当時おそらく私だけのものではなかっただろう。そしてベルクソンもその例に漏れるものではなかったように思う。

本書『ベルクソン『物質と記憶』を再起動する――拡張ベルクソン主義の諸展望』は、このような印象を保持しているかもしれない多くの読者にとって、とても新鮮な印象を与えることになるだろう。本書の序論で編者の一人でもあり、また明らかに本書を含む一連の企画の牽引役を担っている平井靖史自身の手によってその経緯が詳らかにされているとおり、本書は『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する』(二〇一六年刊)、『ベルクソン『物質と記憶』を診断する』(二〇一七年刊)を第一部、第二部とする第三部にして完結編である。この質にしてこの量の論文集を三年間出し続けたこと自体がすでに脅威的なのだが、真に驚くべきことは、第一部に当たる『解剖する』で高らかにうたわれた「拡張ベルクソン主義」(京都宣言)のプロジェクトを、その回を追うごとに着実かつ大方の予想を超えた速度で進展させてきたことにある。分析形而上学との接続というラインで言えば、バリー・ディントンによる三部作すべてへの寄稿を通して、もはや不可逆的ともいえるレベルへと進展しているし、科学との接続というラインで言えば、第二部ではいまだ外形的にとどまっていたとも評価しうる(科学者からのベルクソン哲学へのアプローチとそれに対する哲学者からの応答という形にとどまっていた)のに対して、第三部では平井靖史が三宅陽一郎との共著やさらに谷淳を加えた鼎談によって、ベルクソンの哲学的な水準でもっとも高度な読解とロボット工学、人工知能の最先端の議論とがまったく自然な形で(したがって多少ベルクソンを知っている読み手としては何かとんでもないマジックを見せられているかのような仕上がり方で)縒り合わせられ、一つのまったく新しく、また知的誘惑のきわめて大きい展望を切り開いている。

本書の面白いところは、このようなある意味で戦闘的とでも評すべきかもしれない方向性のなかにあって、普通であれば不協和を引き起こしそうなたいへん堅実かつ古典的な手法によるテキスト読解が、まったく違和感なく、それどころかむしろそういった目立つ主題を引き立てる安定した伴奏の役割を演じており(がしかしそれを演じることをそれ自体としては目的としていないところにこそその絶妙なバランス感が由来しているのだが)、論集全体として調和のとれた構成となっている点にある。

このような刺激的な論集を読むことが読者にとって喜びであるのは、己自身でもまた考えてみたくなる誘惑にかられるがゆえであろう。筆者もまた、ここまでベルクソンの哲学が明らかになってくると、むしろ古代以来の形而上学の変遷の様々なヴァリエーションのなかに、ベルクソンの実証的形而上学の位置を探したくなる。たとえばベルクソン哲学には、おそらくほとんど出現することのないタームに「実体」という概念がある。もちろん、ディントンが言うように「中立一元論」に近いものとして『物質と記憶』における「イマージュ一元論」をとらえるなら、そういった古典的な概念こそが批判にさらされるのかもしれない。確かにアリストテレス的な意味で、あるいはライプニッツ的な意味で「実体」をとらえるなら、あるいはカント的な意味でカテゴリーである「実体」としてそれをとらえるなら、そうだろう。しかしたとえば、スピノザのいう意味での「実体」であればどうだろうか。むしろすべてはイマージュだということは、すべての時間的・空間的様相は「様態」であるとしたスピノザの設定と近づくのではないか。であれば、「様態とは異なるもの」としての「実体」は、ベルクソンにおいてはどこに探すことができるのか。ポール=アントワーヌ・ミケルは本書所収の「ベルクソンにおける現働的なものと潜在的なもの」においてベルクソンにおける「永遠性」の相の重要性を論じているが、徹底して「持続」に内在するベルクソン哲学にあって、生ける現在と共在する永遠性を論じることを可能にするためには、何かしら様態的なものとは「異なる」仕掛けが必要になるのではないだろうか。しかしそれは単に「過去」と「現在」の二元論を用意するだけでは不十分であるように思われる。むしろ「過去」と「現在」を二つのまったく異質だが共立する「属性」のごときものとしてもつある外部が侵入してくるところにこそそれを探すべきではないのか……。

ともあれ、このような愚考をめぐらせられてしまうのも、本書がまったく知的誘惑に富んだ書物だからであって、それは本書の最大の長所の一つを示しているに違いない。そしてその長所はきっとさらなる展開を今後生み出し続けることによって、いつの日か来るべき学究の確たる基礎となるのだろう。
この記事の中でご紹介した本
ベルクソン『物質と記憶』を再起動する 拡張ベルクソン主義の諸展望/書肆心水
ベルクソン『物質と記憶』を再起動する 拡張ベルクソン主義の諸展望
著 者:平井 靖史、藤田 尚志、我孫子 信
出版社:書肆心水
以下のオンライン書店でご購入できます
「ベルクソン『物質と記憶』を再起動する 拡張ベルクソン主義の諸展望」出版社のホームページはこちら
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